データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇文化を伝承するために

 ということで、文字による記録の中では、なかなか日常茶飯の問題は伝わりにくい。そこで、人々はどうしたかというと、どうしても必要なことは口づたえで伝えました。しかし、重要なことは、口づたえで伝える時に間違ってはいけません。何人かが、ある言葉を口から耳へ伝えていき、その正確さと速さを競う「伝言ゲーム」というのがあるでしょう。10人もに伝えると、まるで違った内容になる。これではいけないのです。つまり、言葉というのは、その土地のどうしても伝えなければいけない、原理原則、すなわちクセであり、文化を伝えるのには大変不自由なのです。そこでどうしたかというと、まず誰が伝えても、誰が聞いても間違いのない言葉を選んだのです。
 それからもう1つは、言葉にリズムをつけた。これはお芝居をやる方がよくおっしゃいますが、棒読みでは、せりふはほとんど覚えられない。長いせりふをどうやって覚えるかというと、歌うように覚える。さっきの「うちぬき」の音頭だってそうです。あれは労働の1つのリズムです。リズムがないと、同じような調子で仕事をするわけにはいかないのであります。
 言葉というのは、あるリズムで覚えるのですね。ですから、たとえば、般若心経を文字だけで覚えようとすると、大変難しい。ところが、達者なお坊さんの後ろへついて、5日間、10日間と聞いているうちに、自然に覚えます。あれはリズムで覚えているのです。ということで、ことわざで大事なことは、生活の原理原則、つまり、その土地の文化のクセを伝えるということです。しかし、今、それが伝えられているかとなると、完全に途絶えたといってもいいのではないかと思います。
 ここでテストをいたしましょうか。御飯を炊くのに、今は電気釜ですが、昔はかまどで薪をくべて火を焚(た)いて、釜という道具で御飯を炊いた。その時に、火を焚き過ぎると焦げるでしょう。火が足りないと芯がある状態になります。非常に難しいのです。ですから、おばあさんからお母さんへ、お母さんからその娘へと、御飯の炊き方をことわざで、しかも多少リズムを入れて伝えたはずであります。どういうことわざですか。
(会場:「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いてもふた取るな。」)
 ここまで来て、試験をされるとは思わなかったですか。この答えは、75点です。私が今、リズムで伝えれば忘れないといった。これを、おばあさんがゆっくりゆっくり、歌うようなリズムで伝えると覚えていたはずなのです。ところが、このリズムのほうが切れてしまうと、言葉だけで覚えるというのはなかなか難しいのです。だから、この言葉とリズムとの関係には、日本人が伝えてきた1つの形があるのです。それは何かというと、1行が5文字か7文字で、それが4行立てで完結する。字余りもありますが、原則として4行立てです。4行立てというのは、かなり乱暴に拡大して解釈しますと、現在のカラオケの歌詞とそんなに違わないということです。替え歌ができなければ、これはリズムで伝えるということにはならない。そこで、先程の答えがどうして75点かといいますと、中の1行が欠落している。4行立ての1行がないから、75点です。「ジュージューふいたら火を止めて」という一行が入るわけです。そうでしょう、火を抜かないと焦げてしまうじゃないですか。
 「はじめチョロチョロ」というのは、釜からかまど全てを温める、松山市あたりでいう「ぬくめる」わけですね。そして、お米まで温まったところで炊きあげてやるわけです。それから火を引いて残りの炭火で蒸すのです。蒸すというのは、泡立った粘りけのある湯気、あるいは湯を米粒にからませて、ふっくらしたおいしい御飯にする作業です。その蒸す時間を慌てて釜を下ろしてはいけない、ふたを取ってはいけないということを最後にいっているわけですから、これがおいしい御飯を炊く原理原則であります。そして、この原理原則は、現代の電気釜の中にも、サーモスタットという機械が代行してくれているのであります。
 電気釜は、ヨーロッパのあるメーカーでも作っています。そして、これは、東南アジアに向けて人気のある電気釜です。しかし、東南アジアに出ているこのメーカーの電気釜は、先程問題に出したことわざのシステムを採用していないのです。このシステムは、日本の電気釜のシステム、つまり、ジャポニカといわれる粘りのある短粒米を炊く方法なのです。
 それからもう一つは、湯とりという方法があります。これは、釜じゃなくて鍋で御飯を炊く場合をいいます。水をいっぱいに張っておいて、あぶくが出てくると時々あぶくを取ってやる。そうすると粘りが取れるわけですから、サラサラした米ができる。ヨーロッパのメーカーの電気釜というのは、最近のものは知りませんが、かつて、私が東南アジアなどでよく見ていたのは脇にパイプがあり、そこからあぶくの部分を抜き出していました。ですから、東南アジア各地と日本の御飯の状態が違うというのは、ただ単に短粒米か長粒米か、ジャポニカか、インディカかという違いだけではなくて、炊き方が違うのです。湯を張って、いらない湯を取るか。いらない湯まで、あぶくまで米粒にからめるか。それによって、当然粘りが違うわけです。
 先程発表された日野さんが使われたちょうどいい資料がありますので、これを使わせてもらいましょう。
 「なつかしき砥部の山里」と題した、大正から昭和の初めころの砥部の風景を描いた絵が何枚か載せられています。その中から万年(まんねん)集落の風景を拡大して前に描いてみましょう。まず家があります。その回りに畑がある。それから裏山があります。道が通っている。下が水田であります。だいたい絵をこういうふうに読みとることができるでしょう。それで、ことわざの「桃(もも)、栗(くり)三年、柿(かき)八年、柚(ゆず)の大ばか十八年」までは、ここの家回りに成り木を植えることをいっているのです。この成り木の、桃、柿、柚のいずれも日本に原産がたどれます。桃がちょっと分かりませんが、これをスモモあるいは梅とすれば、これも日本に原産がたどれます。しかも、これは西日本の産地に原産がたどれるのです。だから、東日本へ行って、「桃、栗三年、柿八年、柚の大ばか十八年」が家を維持する原理原則ですよといっても、あまり通じない。ところが愛媛県地方では、この絵が示すように、見事にこういう原理原則が伝わってきたわけであります。上に山がある。その山の中腹と家回りに畑を開く。それから下のほうには田が開けているという、この3層、4層の垂直分布がこの絵に見られます。しかし、この家の後ろの森といいますか、背戸の植え込みは、山を残したのではありません。山からわざわざこういう成り木を下ろしてきて、家周りに植えたのです。それはなぜかということを考えてみましょう。
 まず、桃を梅としましょう。日本で梅の利用を一番きちんと伝えていたのは、奈良盆地であります。梅はなんのために必要なのでしょうか。それは、梅干しを作り、塩を取るためでした。ここでまた、何代も口から耳へ言葉が伝わっている間に、言葉が乱れてきました。特に、最近はそれが著しい。「梅干し」という本来の言葉が伝わらなくなってきました。「梅干し」と今いっているのは、一般にはシソでつけた梅でしょう。それは「梅漬け」なのです。梅干しというのはおかしい。「梅干しばあさん」というのは、くしゃくしゃでしょう。あれが梅干しなのです。梅漬けは、ポッチャリみずみずしい。だから、ばあさんというのにはふさわしくないでしょう。シソで漬ける前の状態が梅干しなのです。
 この梅干しを作るのに、奈良盆地などではどうしていたかと言いますと、奈良盆地の場合は、天保年間あたりの記録や梅干しを入れた壷(つぼ)が残っていて、その壷にもちゃんと年号が入っていたりするから、よろしく立証できるのです。まず、収穫した青梅を天日乾燥します。それでシワシワになりかけた時に、海へ持って行きます。海へ持って行く手間が面倒であれば、海べりに梅を植えるのがよろしい。ということで、奈良盆地の人は、紀州の海岸べりに土地を借りたり買ったりして梅を植えました。それが今、紀州梅として、皆さん方の卓上に上がっているわけです。それで、その青梅を網袋へ入れて、海の中へ入れます。梅というのは、果汁の浸透作用が非常にいいので、一晩で梅の中の水分と海水が入れ代わり、梅が海の塩水を含んでくれます。それをそのままで持って帰るのは重いから、もう一晩、海べりで野宿というか、仮宿をして梅を干します。そして干したものを持って帰るのです。持って帰って、さらにカラカラに干します。つまり、これが「梅干し」です。それで、これを壷や瓶(かめ)の中へ入れておきます。桶(おけ)はだめです。焼き物の壷や瓶に入れて、密閉します。何年かたつと、梅の肉の大部分は塩が結晶した状態になります。芯(しん)にある種が残るだけです。奈良盆地で、天保年間あたりの年号がある壷や瓶を開けてみると、中で梅がきれいな塩になっています。これが、山陸部の人が塩を取る一番合理的な方法だったと思います。
 もちろん、浜へ出て海水を焼くという方法、あるいは海藻を焼くという方法もあります。しかし、これは鍋、釜ができてからです。また弥生時代の遺跡から、塩を焼いたと思われる壷が出ることがあります。ですが、これらの方法は、塩を作る効率を考えると、それほどよくはないだろうと思われます。だから、梅に海水を含ませて、それを結晶させた。その塩というのが、貴重な時代があったということがうかがわれます。
 こうしてできた塩を「塩梅(あんばい)」と呼びます。「あんばいがいい、悪い。」というのは、現在では「都合がいい、悪い。」というふうに使っておりますが、江戸時代の文献を見ますと、「この宿の料理は、あんばいよろし。」というようなことが書いてあります。これは、料理の味つけがよろしいという意味です。味つけの基本は塩味ですから。「塩梅がよろしい。」という記述のある道中記がいくつも出てきます。江戸時代までは「梅干し」も「塩梅」も、ちゃんと合理的なものとして、言葉が伝わっていたわけです。つまり、なぜ梅を屋敷周りに植えるのか。しかも、できるだけ大きな梅を植えるのかというと、それは、塩を確保するために大変有効であったからということが考えられます。
 それでは栗とは何か。これは丹波栗のことではありません。丹波栗というのは、近世になってから、もっといいますと、近代になってからの、人間が栽培した栗であります。ここでいう栗とはドングリのことです。ドングリというのも、植物名称ではありません。例の童謡の「ドングリコロコロ」からあと、ドングリというのが一般名称になりますが、ドングリは植物名でいうと、シイ、カシ、ナラ、トチなど、このあたりの山になる木の実を総称してドングリとしています。このあたりは、シイとカシが多いはずです。それから東日本へいくとトチが多いはずなのです。余談になりますが、栃木県というのは、トチがたくさんあったから、栃木県としたわけです。しかし、栃木県は県の木を、トチの木からマロニエに変えました。しかし、マロニエは、なんということはない、翻訳すれば、「西洋トチ」です。ということで、まあ、あんまりクセを変えようとしないほうがいいのです。どうにも目に余る、悪いクセはやめてもいいのですが、クセはクセとして、大事にしなければいけません。
 さて、このドングリ類を家の後ろへ植えている。いざという時は、これは食料になります。最近、縄文や弥生時代の遺跡の発掘が進んできましたが、そういう遺跡の周りには、「クリの穴」というのが不可欠な要素として出てきます。最近では、遺跡を掘る時には、「クリの穴」があるという前提で掘るのです。
 今までの発掘というのは、こういうことをあまり考えなかった。考えなかったから、縄文人が何を食べていたかというのは、勝手な想像だけで、魚をたくさん獲(と)っていたなんていいますけれども、魚や獣は当たり外れがあります。そんなところを頼りにして生活するというわけにはいきません。それはお父さんが元気な時、天気がいい時に出て行けばいいのであります。だから「亭主が無事で留守がいい。」というのも、これはことわざではありませんが、本当にそうなのです。平生の生活は、お母さん、つまり、女性が支えなければいけない。女性が支えるとなれば、何をやるかというと、畑を耕すか、あるいは山へ入って、ドングリを拾うことなのです。
 私が調査で全国を歩きだしたのは、1967年(昭和42年)ころからです。そのころに、岐阜県、石川県の県境のあたり、地名で言うと、岐阜県白鳥(しらとり)町石徹白(いとしろ)、あるいは、福井県和泉村穴馬(あなうま)のあたりですが、そのあたりでは、昭和40年代にはまだ明治生まれのおばあさんが健在でありました。この地域はトチが多いのですが、そのおばあさんたちが。「あのトチの木は何おばあさんの木。このトチの木は、何おばあさんの木。」という会話をするのです。どういうことかと話を聞いてみると、この土地の女性は、嫁入りする時にトチの木を1本持たされているのです。嫁入りの時に木を1本持つというのは、切って担いでいくという意味ではありません。実家の木の所有権が、これから嫁にいく娘に移る。そうすると嫁にいった後、木の実が繁るころ、落ちるころに里帰りをして、そのトチを拾って、それをかごに担いで、また婚家へ帰るわけです。つまり、娘が嫁にいった後、食料に不自由しないようにという持参食料であります。それが昭和40年代に、話の中で伝わっております。
 愛媛県から豊後灘(ぶんごなだ)を渡りまして、宮崎県日向地方の山地へ行きますと、今でも「ひえつき節」という歌があります。あのひえつきは、唐(から)臼でつきます。その唐臼で、カシの実を殼ごとつくとグシャグシャになります。これを桶の中へ水と一緒に溜(た)めます。何度かかき混ぜると、いくつかの層になって沈でんしますが、実の荒粉になった部分が中間に溜まります。それで上水があくです。ですから、上水を取り替えながら、何度もかき混ぜると、中間に溜まった荒粉の部分が良質のでんぶんになるのです。これをだんごに丸めてやったり、あるいは米とつき合わせて、餅(もち)にしたりします。これを「カシの実ぎゃー」といいます。「ぎゃー」というのは、愛称であります。こういう食べ方がありましたから、いよいよ困った時は、家の裏にカシの木が植えられていた方が、精神的安定感が強いということになります。
 柿はもうお分かりでしょう。この砥部の万年集落の説明書きにも載っています。このあたりは柿の木がたくさん植えられていた。その柿は渋柿であった。甘柿というのも、これは品種改良をして商品化した栽培種であります。かつての柿は渋柿であります。この渋柿はどうするかというと、もうお分かりですね。干し柿にします。干し柿にすると甘味料になります。日本という国は、砂糖の原料が不足している国です。つまり、砂糖キビは、自然栽培をしようとすると沖縄でしかできません。砂糖大根は北海道でしかできません。本州、四国、九州あたりは、砂糖の原料がほとんどありません。もちろん近世になっては、三盆白(さんぼんじろ)というのが、特に徳島のあたりでは出てきます。
 しかし、「砂糖ぶるまい」といって、お客さんが来た時は、砂糖があることを誇示するのがもてなしでありました。夏ですと、水の中に半分ほど砂糖を入れて、これを冷水として出してあげる。それから「砂糖ぶるまい」の一番最後まで残っていた形は、梅漬けに砂糖をまぶしてたべることです。特に、旅館へ泊まると、朝食の前にそれが出ていました。このくらい、砂糖は貴重でありました。日常の食事に砂糖を加えるということはしなかったのです。お客さんが来た時に砂糖を使うというのが、これがふるまいであります。だから、まだまだ日本の料理の味つけは甘いのです。これは砂糖が不足していたという伝統が残っているのです。しかし、一方で、工夫をして、干し柿を料理に使います。今はあまり使いませんけれど、白和(しろあえ)なんかに柿を入れるでしょう。そうすると甘みがあってちょっと渋みも加わり、いいわけです。それから、私が実際に聞いたり食べたりしたものとしては、昭和50年前後に、愛知県の三河地方の山の中の「あんころ餅」があります。といっても、中がアズキのあんではなくて、干し柿をつぶしたものが入っておりました。スポンジケーキのようで、なかなかいいものです。甘味料に使えるということで、柿も家周りへ植えなければいけないのです。
 それからもう1つ、柚についてですが、柚はカボスとかスダチとかを含んでの柚です。ここ愛媛県はミカンの産地であります。なぜ寛政年間に、この地に温州(うんしゅう)ミカンを植えたのかというと、元に柚があるからです。温州ミカンはオレンジの系統ではありません。掛け合わせはできますが、原生が違います。日本のミカンは柚の改良種です。柚が下地になりました。温州ミカンを英語で「オレンジ」と訳すのはよろしくない。愛媛県の方々は、日本語の「ミカン」が英字の辞典へ載るくらい、努力なさらないといけないのではと思います。
 この柚からは酢をとります。もちろんお米からもとりますが、御年配の方は御承知のように、お米はそうそう簡単に酒とか酢に造るものではありません。日常の食糧として足りるか足りないかの時代では、苦労してお米の御飯を確保したのですからね。お酒はともかくとして、酢になるまで腐らせてまで食べるようなものではありません。それに、柚があったから酢は十分にありました。この酢があるから、魚を生に近い状態で食べられるわけです。刺身というのは、これは氷が出たり、冷蔵庫が普及してからの料理方法です。
 お隣の松前町には、「おたたさん」がおいでまして、浜に上がった魚をはんぼうに入れ、それを頭の上に載せて、松山の城下を売り歩いた伝統があります。このおたたさんが登場する文献に「生さし」と書いてあることがあります。これを文字通りに、今の刺身ととってはいけません。それから京都あたりでは「生ずし」と書いてあります。これも刺身と考えてはいけません。
 いずれもこれは、塩と酢でしめたものなのです。つまり、「コハダ寿司」とか「しめサバ」とか、そのたぐいであります。現在でも京都では、御飯がついていないただの「しめサバ」のことを「生ずし」といいます。それから江戸料理で「生ざし」というのは、これは一塩をしたものを食べるわけです。
 我々は生の魚を食べるといいますが、うっかりした時期にうっかりした運搬方法で運んで来た魚を生で食べたら、それこそあたってしまいます。昔の人だって、そんなに無茶はしておりません。ちゃんと知恵を働かせています。しかし、魚は生に近い状態で食べるのがおいしいということも知っております。できるだけ生に近い状態で食べる方法が、塩と酢でしめるということです。「酢でしめる」と書いて「すし」です。すしの語源はこうであります。今は魚偏に作るとか、魚偏に旨(うま)いと書いておりますが、文献上は、「酢でしめる」、これを「すし」と読まなければいけないのであります。
 こういうことで、我々の先祖は柚も大事にしました。これが家周りにある。元々、野生であったのをわざわざ家周りへおろして来た。いうまでもなく、家の安定継続を願ってのことです。これくらいの種類の成り木を家周りへ作らないと、その家はその土地で豊かにくらすことができない。もちろん時代が下がるに従い、お米がどんどん作られるようになります。畑作もあわせて発達いたします。それにつれて、こうしたものの利用価値というのは、どんどん後ろへ退いていくのであります。しかし、成り木を家周りに植えたという先祖代々の苦労というのは、大事に残さなければいけないということで、この絵に描かれているような景観が大正時代にも見られるのです。
 そして、こうした恵みを与えてくれるのが山です。日本は、海に囲まれた島国でもありますが、それじゃあ、神様の行き着くところは海の向こうなのか、山の上なのか。これを調べてみますと、海の向こうへ行くのも、確かにあるのです。沖縄のニライカナイとか、あるいは紀州の補陀落(ふだらく)とか、あるいは伊勢志摩における磯神とかは海の神です。このように、海の神の信仰は確かにありますが、日本全体でみると、これだけ海に囲まれているにもかかわらず、山の信仰の方が強いのです。瀬戸内海の真っただなかの大三島(おおみしま)に大山積が祀(まつ)ってある。あれは海の神様ではなく、山の神です。というのは、先程言いましたように、魚も獣も大事ですが、しかし、我々の先祖のくらしをずっとたどれるだけたどってみると、どうも山から恵みをもらっている割合が高いのです。
 したがって、どちらが大事かというと、狩猟に出ていって長い間便りもなく、たまにイノシシを持って帰るお父さんよりも、毎日本の実を拾ってくれるお母さんのほうが大事なのです。私の言おうとすることは、お分かりですね。山の神が大事というのは、こういう意味からです。