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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成 8年度 愛媛学セミナー集録~

◇「アートの里づくり会議」の、これまでの活動

 最初に論議されたことは、「アートとはなんぞや。」ということでした。この論議を延々と繰り返したわけです。陶芸とか、窯をやっている方から、「『アート』と言うのだったら、砥部町は『芸術家の町』ということになるのか。わしらは職人だから、そんなん関係ないぞ。」というような意見も出てくるし、一口に「アート」と言っても訳が分からないという話がかなりあったのです。
 こうした論議の中から出て来たことは、「ほんのちょっと住みよい町」、あるいは「住んでも訪ねても美しい町」というとらえ方を基本とし、それに「アートに出会える町」という付加価値を付け足すことにより、「アートを創造できる町」へと展開できるのではないかとういう考え方でした。結局は、皆が考えているいい町づくりの、ちょっとレベルの高いところを考えたらいいのではないか。そういうことを目標にしてやっていく、そのキャッチフレーズが「アートの里づくり」なのだと。あまり難しく考えなくていいのではないか、ということで話がまとまったわけです。
 その手始めとして、1990年(平成2年)に砥部町と協力して、愛媛県の県章をデザインされたデザイナーの福田繁雄さんと沢田淳大分芸術短大教授、それから松山のタウン情報誌の佐藤靖雄編集長の三人をパネラーとして招き、フォーラムを開催しました。それが「アートの里づくり会議」の最初の仕事でした。
 その後、砥部町が「ふるさと創生資金」をいろいろな事業に出してくれるということを聞き、まず、50万円出していただいて「アートの里」という新聞を発行しました。これによって、砥部町が「アートの里」というのを宣言したのだということを、町民全部に理解していただこうと考えたわけです。
 1991年には、大分県の湯布院の町おこしの中心になった中谷健太郎さんなどを招いて、第2回目のフォーラムを開催しました。そこでは、「砥部町で何かできるか。」というようなことについて話をしたわけです。
 砥部町というのはどういう所かというと、焼き物の里であるし、自然環境としても里のイメージが十分残った所でもある。だから、その良さを残していく活動を続けていったらどうだろうかということになりました。そして、町内でまず川登(かわのぼり)地区を見直そうということで、「川登の水車」が復活できないかなと考えました。砥部には、昔は水車がたくさんあったのですが、唯一残っていた「川登の水車」も土に埋まって回らない状態だったのです。ちょうど、広田村へ通じる国道379号の改修工事があり、川登地区付近で国道を新しく付け替えるようになっていました。そうすると、どういうものを守って残していかないといけないか、そのあたりを調べて記録していけたらいいなということで、「川登マップ」というものを作りました。それから砥部焼き祭りに協賛する形で「アートの里写生大会」も行いました。


砥部町伝統産業会館にある砥部焼の地球儀

砥部町伝統産業会館にある砥部焼の地球儀