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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇開明学校の歴史

 皆さん、こんにちは(会場、小さい声で、「こんにちは」)。ちょっとお声が小さいですね。皆さん、こんにちは(会場、大きい声で、「こんにちは」)。
 思わず、何か、開明学校の昔の教壇に立っているような気がしまして、大変、失礼をいたしました。
 開明学校に勤めさせていただきまして、もう5年になります。私の人生において、この5年間は、非常に貴重な時代だったのですが、開明学校の歴史からいいますと、ほんの短い一時にしかすぎないと思います。
 1872年(明治5年)の学制発布によって、日本中に小学校ができ始めますが、開明学校もその年に、申義堂の校舎を使って、開校しています。そして1882年にドイツ製のガラスにアーチ型の窓を持つモダンな校舎が建築されました。明治初期の、教育にかかる費用は民間で負担しなさい、という時代です。ですから建築費用のほとんどを町の人たちが寄付をして、賄っていたそうです。当時の学校教育に対する町民の姿勢や熱意というものが、非常に素晴らしかったのだなあと思います。町の人の協力なくしては、申義堂にしても、開明学校にしても、できなかったことだと思うのです。
 また、光教寺の境内であった所に学校が建築されています。この光教寺との御縁は、それからもずっと続きます。開明学校の資料の中から、少しピックアップして御紹介してみたいと思います。
 第三教場という札が、お寺の本堂に掲げられています。これは開明学校だけでは教室が不足したので、お寺も借りていたようなのです。開明学校の校庭は男子、お寺の庭は女子の遊戯場(今の運動場)として使われていたようです。かやぶきの屋根にボールを投げ上げたり、お寺の縁側で、お手玉をしたり、時報板(じほうばん)の合図が鳴ると、いっせいに教室に駆け込んだという記録も残っております。若い先生は、光教寺に碁盤を置き、休み時間を楽しみに打ち継ぎをされていたそうです。
 1899年(明治32年)に宇都宮忠吉という、素晴らしい校長先生が赴任されていますけれども、上甲平谷(じょうこうへいこく)先生に俳句の指導もなさったような方で、よく申義堂やお寺を使って句会を開かれています。その時の若い御住職も、その句会のお仲間のようでした。その校長先生の勤続10周年の記念の祝典が、「開明学校の二階の3教室の仕切りを取り外し、講堂にて行われた。」と学校日誌に書いてあります。「児童来賓入場」とありますが、当時の児童数を調べてみますと412名で、果たして全員が入れたのかなあと思います。「余興として、校庭で男子の相撲を行い、それから午後6時に光教寺にて祝宴会を行う。参加者200名」と書いてありますが、御住職にお聞きしたところ、「本堂だけでは200名は入り切れなかっただろうな。」とおっしゃっていました。
 このようにお寺と開明学校とは、大変深い結び付きを持っていて、そのころの生徒は、学校というより、「光教寺開明学校教育道場」という表現をしているようです。今の御住職も開明学校には大変興味を持っていただいて、いろいろ御助言などいただいておりますが、代々の御住職も教育に力を注がれていたようです。
 そしてまた、現代にいたる中町の皆さんの御協力には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。中町がなくては、あの町並みがなくては、開明学校の価値もどうかと思います。