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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇上鬼窪の新校舎-宇和町尋常高等小学校

 清水伴三郎氏は、町長もしておられ、今の上鬼窪に1万坪の学校用地を買収したわけです。当時は反対もあったのですけれども、押し切って、思い切った英断をされたわけです。それは才智にたけた、将来を見越されたもので、後々評価されたものです。当時私は、校舎を建設中の広場で、ドイツから来たツェッペリン飛行船を見たことがあります。昨年4月に来町されたシーボルトの玄孫(げんそん)コンスタンチンさんにこのことを話すと、「年代がちょうど合っている。」と言われました。
 上鬼窪の第一校舎が落成した年の宇和町尋常高等小学校に私は入ったのです。真中に大きな玄関がありまして、広い大きなガラスの開き戸の学校へ入ったのを覚えています。この廊下も、非常に広くて、材は非常に厚いものをふんだんに使っており、静かに歩けるようになっておりました。現在米博物館として昔のままの100m廊下が残っています。この100m廊下にずっと靴を並べていると、どの級の生徒が一番行儀が悪いかがすぐ分かるので、並べられた靴は、必ずきれいに向こうまで線がそろっていました。そういうふうな躾(しつけ)教育がなされておりました。
 3年生まで、そこにいましたが、4年生になると坪ヶ谷の校舎に移り、石垣の一番下の段の4年生の教室に入りました。私が4年生になった時に宇都宮又一先生がおられて、私はそれまで満点なんか取ったことがなかったのに、初めて取ったのです。源平合戦の一の谷の戦の、「討たれし平家の公達(きんだち)憐れ。」(「青葉の笛」)を歌わされ、上手にこなしたのでもらったのです。
 5年生となった時に、上鬼窪の本館の2階建てが落成し、これで全部の校舎が建ったわけです。その時、講堂(現米博物館の隣りの講堂)で、「勇敢な水兵」という劇を演じて、熱心で厳しくスパルタ的に教えていただいた徳丸仲治先生から、バザーの時にいろいろ御馳走をしていただきました。厳しさもあり、優しさもある先生でした。
 その新しい学校の校舎と人家の間に、垣根ができました。石垣積みのきれいなもので、ああいう石工さんは今はもういなくなりましたけれども、今でもきれいな線を築いております。そこに紅柴(べにしば)を植え、私たちが当番で、その苗に水をやりました。毎日のようにやった水のかいあって、春は芽を赤くふき、後は緑になりました。今も生えております。それに並ぶケヤキの大木の根元に清水伴三郎の碑が建っております。そして二宮敬作の青石でできた立派な碑は民具館の前に移し、中町を訪れる人に見てもらっています。
 高等科になりますと、商、農業科となり、2階の和室で立ち居振る舞い、言葉遣いなどの作法の時間があり、大変ためになることを教えていただきました。スポーツも盛んで、クラブ活動で私たちは竹内延寿先生という方に剣道を習いました。先生は現在も御健在で松山市に住まわれ、ソフトテニスをしておられます。凍りつくような寒さの早朝からの寒稽古にも耐えたおかげで、意思の強さも、敏捷性も、筋力も、生涯の体力や精神力も育まれたことは間違いありません。当時の交通の便の悪い中、バスを貸切り、松山の武徳殿(ぶとくでん)に試合に連れていってもらいました。これが初めての松山行きでした。