データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇虚子と花叟

 風早では、明治以降、また俳句がさかんになってきます。今、北条には100基に余る句碑があります。中でも皆さんが一番よく知っておられるのは、鹿島だと思います。鹿島だけでも句碑が15基ほどあり、島が沈むといわれるくらいです。鹿島の句碑には、北条市内だけではなく、市外の有名な人の句もたくさんあります。その中で有名なのは、旧河野村の仙波花叟(かそう)の「腰折(こしおれ)という名もをかし春の山」の句です。
 それからもう一つ子規の弟子だった高浜虚子(きょし)の句碑も有名です。これも皆さん御承知だと思いますが、西の下(げ)に立っている「この松の下にたたずめば露のわれ」という句です。碑のもう一つの側面には、「道の辺に阿波の遍路の墓あわれ」という句が残っています。
 虚子は、幼時、西の下に住んでいたわけです。その時のことが非常に印象深く、それが後に俳句の道に入っていく基礎となったのではないかというようなことも言われています。
 とにかく北条には、たくさんの句碑が残っております。
 仙波花叟については、江戸時代は別として、現在の北条の俳句の基を作ったと言っていいと思います。花叟は、当時辻町にありました芸備銀行という銀行に勤めておりましたが、お弟子さんをたくさん作り、大正4年(1915年)に風早吟社というのを起こしました。そしてそれが元になって、現代の北条の俳句が隆盛を極めたと言われています。花叟は、河野村の常保免(じょうほうめん)の人ですが、非常に優秀で、正岡子規に「伊予には花叟あり。」と褒(ほ)められるくらい優れた俳人でした。その花叟を慕って、たくさんの門下ができ、それがいまだに続いているわけです。