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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇横浜と横浜学

若林
 それでは、加藤先生に「横浜」と「横浜学」について、お話をいただきたいと思います。

加藤
 では、まず「横浜」と「横浜学」について簡単に御紹介し、次に、若干個人的なことも含めて、私自身がどうしてこのようなことを始めたのかということをお話し、最後に、各地で起こっている地域学の今後についてお話したいと思います。私自身、これからは、地域学が地域の人の元気を回復する、恐らく決定的な要因になるのではないかという感じをもっていますので、そのあたりのことについても、少しふれてみたいと思います。
 まず、横浜についてですが、横浜という名前を聞かれると、皆さんはたぶん、中華街や最近できたランドマークタワーや、八景島(はっけいじま)というレジャーランドなどを思い浮かべられるのではないかと思います。外から見る横浜は、そういうイメージと、それから港町というイメージなのです。
 横浜は、実を言うと、若干の縄文遺跡と弥生遺跡がありますが、それ以外は、古代も中世も、それから近世も特徴がほとんどないところと言われます。日本のほとんどの大都市は、近世江戸時代の城下町か、あるいは、門前町を中心に発達してきた町ですが、横浜、神戸には、そういうものはありません。それでは、横浜の核になったものは何なのかと言いますと、いわゆる幕末の時期、だいたい今から140年ぐらい前ですが、徳川幕府が外国(一番乗りしたのは、当時の超大国ではなく、新興国だったアメリカ)と結んだ条約によって港が開かれ、そして外国人が来て、貿易をするようになったということです。それを居留地と呼び、現在でもその中の中華街が、横浜にとって大きな役割を果たしています。横浜は、西洋文化と中国文化の二つが核になって急速に大きくなった、そういう都市です。江戸幕府がペリーと日米和親(にちべいわしん)条約を結んだのが横浜の地で、それが1854年(安政元年)です。港として開港したのが、それから5年後の1859年(同6年)ですから、横浜の歴史は、140年ぐらいのほんのわずかの間です。だから、すごく若い。そのわずかの間に、横浜は330万という人口まで集めました。開港当時の横浜村は、人口500人ほどでしたから、急成長し、市域をどんどん広げてきたわけです。しかし、それだけにまた、横浜はいろいろな問題も持っています。
 いい面で言いますと、全国から人が来ているため、古い因習を持っていません。それから外国人、つまり欧米系の人と中国人など、ある意味で多民族が造った都市ですので、伝統や因習にこだわっているわけにいかず、それが一種の進取の気性を作ったというふうにも言われています。
 逆に悪い面で言うと、まとまりがなくて、バラバラです。それも勝手に好きなことをしたいというところがあります。それは結構なことなのですが、開港以来百何十年もたって(歴史の中では大変短い時間ですが)、こんなに大きくなって、新しい問題が出ました。その一つが、隣に大きい東京があるだけに、その東京に対して横浜があるのだという、「対東京意識」とでも言うようなもの、あるいは、東京の一部分に併合されてしまうというのはなんとしても許せないというような意識です。併合というのは、別に行政上の問題ではなくて、一種の心意気の問題です。横浜の方が歴史は浅いが、横浜らしい特徴があるのではないかということで、ずっとその特徴、言い替えれば、「横浜らしさ」とは何かという議論をしております。最終的には、進取の気性というか、古いことにこだわらず、新しいことに飛びつくという、そのプラスの面を生かすという方向に落ち着きそうです。
 それからもう一つ、心意気だけではやはりダメだということで、今着目しているのが、港の機能です。御承知のことと思いますが、幕末期に、5つの港、北から言うと、函館、新潟、横浜、神戸、それに古くから開かれていた長崎に限定し、そこだけは外国人が住んで商売ができるということにしました。いわゆる、5港の開港です。そのうち横浜は、東京に近いということで、急速に大きくなりました。東京に国際港ができるのは、実は横浜開港から80年ぐらいあとの1941年(昭和16年)のことです。その間は、横浜だけが関東で唯一の国際港で、しかもそこは文化交流という大変大切な場でもあったわけです。港は、物流のためである以上に、今後は文化の機能を強化させなくてはなりません。文化交流というのは、物的な施設、あるいは地域的な核がないと、なかなか実現できませんので、それを一つきちんと再評価していくべきではないか、と考えています。
 そのようなことで、心意気と港の機能の強化、それも国際港を持ってきたということの二つが、どうも横浜を考えるときの核になりそうなのです。ただ、これは歴史上の問題と同時に、今後どうするかということに結びつきます。この(平成8年)7月に、「海の日」が新しい祝日となりました。これは「国連海洋法条約」が日本でも発効したことを意味します。この条約は人類史上はじめての画期的内容を含んでいます。港の役割も大幅に変わります。こういうことをお話したのは、よそのいろいろな都市と比べてみて、自分のところはどうだという「比較」という鍵が、やっと定着したということをお話したかったからです。
 それからもう一つは、つながり、つまり「関係」ということです。たとえば、正岡子規が松山から初めて東京へ来た時に、船に乗って着いたのが横浜港です。つまり、航路ができたとか、貿易で商品が世界につながったとか、あるいは、外国航路はほとんど横浜から出ていたのですが、そのようなつながり、それを、昔はこうだったというばかりでなく、今後、どう作っていくかだと思います。最近の言い方ではネットワーキングと言いますが、それは意識的に仕掛けていかなくてはいけないのです。最近のような時代では、それはたとえば、航空路ができるとか、あるいは商品の流れができるというようなことよりも、もう少し心の深いところにつながる、先ほどの言葉で言うならば、「心意気」のようなものが大切になると思います。つまり、北条なら北条が、ほかの町と比べてどうだ。あるいは、ほかとどういうつながりを現実に持っていくのか。そのつながりというのは、下手をすると、中身がもっぱら流出していってなくなってしまう、空洞化という問題を当然はらんでいます。しかし、空洞化というのは、逆に言うと、新展開を意味するわけですから、これは必ずしも情けない状態とばかりは言えないと思います。そういうやっかいな問題もありますが、「比べてみる」ということと「つながり」を持つということ、これが地域を考える時に、大事なことではないかと思います。このセミナーの趣旨から言えば、どういうつながりをもって風早の文化を考えるかということが、あとで話題になろうかと思います。