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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇小松藩の道路行政

 小松藩が誕生をいたしまして、ここに初代藩主一柳直頼(ひとつやなぎなおより)公が入封いたしましたのが、1640年(寛永17年)のことです。陣屋を建設するのに、それまでに3、4年かかっておりましたが、まだ完成にはいたっておりませんでした。ところがここで一つ忘れてならないのは、陣屋づくりと一緒に町づくりをしたことです。このあたりは小松原と言われ、塚村というふうにも呼ばれておりました。ここに道を造り町づくりをするというのは、藩にとっては初めての道路行政でした。江戸時代は、今のように全国統一の道路行政ではありませんので、松山藩、今治藩、あるいは西条藩など皆それぞれ違っております中で、ここでは道づくりを陣屋づくりと一緒に取り組んだわけです。
 これより少し以前に、幕府から軍役制というのが出されています。徳川家康が亡くなったのが1616年(元和2年)のことですが、その家康が亡くなる前に、全国諸大名に軍役制を敷いたわけです。これはどういうものかといいますと、各藩の家来数、いわゆる家臣団は何名というふうに決めたわけです。小松藩は1万石ですので、1万石は総勢235名です。初代直頼公がここへ入りました時には、父直盛(なおもり)から家来を分けてもらったわけですけれども、その時の家来数は21名でした。ですから、陣屋と一緒に21名の家来の屋敷を造る土地を確保したらいいようなものですけれども、その軍役制によって、235名の家来の屋敷を確保しておかなければならなかったのです。いざという時に、それだけの人数の軍団が出陣できる、そういう方向にもっていかなくてはならなかったのです。もちろんそれから後、二百年余りの間に、小松藩は約200名ほどの家臣団に膨れ上がりました。それでも235名までにはなっておりません。
 町づくりの際に、小松川を現在地へ持っていきましたが、あれが元は、東の方300mくらいの所にあったのだそうです。小松川を西へ持っていきまして、武家屋敷を確保したわけです。それと同時に、一つは政策的にも、また軍事的にも問題があるわけですが、そういった家臣団の生活のために、日常の買い物ができる町をその武家屋敷の近くに持ってこようとしたのです。それまでは、現在の国道11号沿いに、今から1,200年ほど前に造られた、南海道(なんかいどう)の続きの道があったわけですけれども、それでは少々遠すぎるということで、現在の西(にし)町から東(ひがし)町にかけての長さ8町8間(約900m)、幅3間(6m)の道路が造られたわけです。
 この道が最初から金毘羅街道になったわけではありません。この道が、松山から来る中山川沿いに通る中山道と接続されたのが、1687年(貞享4年)ころです。その中山道に桜を植えて、その後、桜三里という名前になったわけですけれども、それよりも20年前の1667年(寛文7年)に、丹原におりました松山藩の代官矢野五郎右衛門源太という方が、2,000本植えました。ところが、その20年ほど後の1687年に、今度は8,200本植えたという記録が、松山藩に残る「松山叢談(そうだん)」という古文書に書かれています。そのころには、松山の札(ふだ)の辻(つじ)を出発して、この中山道を通って、釜の口というところへ通じたわけです。そこから川を渡って、安井(やすい)、赤尾(あかお)(明穂)と、こうつながったわけです。そうしますと、その1687年ころに小松の西町に通じる道路に直結されるようになったのではないかと思うのです。
 初代が入った後、代々の藩主は、商店を増やし、西町から東町にかけての道を繁栄させることに大変努力をいたしました。その一つとして、そこへ住むものには、地租を免じるといったようなことをして、人集めなどをしたこともあったようです。