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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇学塾に見る実学の伝統

 それで大阪学というのは、いろんな人がいろんなことを言っているわけでありますが、私は大阪学のポイントの中の一つに実学があると考えています。このレジメにもB-1-(3)に「学塾にみる実学の伝統」と書いてあります。
 大阪にも大きな学塾がありました。愛媛にもずいぶん学塾がたくさん建っています。民間の寺子屋とか、あるいは町の私塾とか。それから大きくは、各藩の、伊予八藩の藩校と書いてありますが、いろんな形の藩校や学塾があったわけであります。大阪には藩がなくて、天領なわけですから、大名がいません。そのかわり、懐徳堂(かいとくどう)という儒学の学塾がありました。それからもう一つ、適塾(てきじゅく)という蘭学塾。これは今でもその建物が残っています。大阪の北浜に適塾がございます。ぜひ、皆さん大阪に来られましたら、梅田からも近い所ですから、ご覧いただいたらと思います。
 この適塾の卒業生が、約670名。1,000人とかいってるものもあります。その卒業生の中に、愛媛県出身の方が12名おられます。それで適塾で学んだ府県別の卒業生の中では、愛媛県の12名というのは、非常に多いほうだったんです。懐徳堂は儒学の学塾なんですが、この適塾のほうは、オランダ語の学塾で、医学の学問所です。
 どちらも大阪らしい所です。大阪らしい実学。実学というのは、実用の学問と思われますが、実用性がないことはないのですけれど、どうも実学ということの本当の意味は、生活を変えていくと言いますか、そういう生活の革新、イノベーション、惰性で生きるのではなくて、何か絶えず新しいものを求めてやっていくという、そういう革新的な意味合いの学問が、実学なんだということです。それでこのことは、慶応義塾大学を創設した福沢諭吉先生の『文明論之概略』という著名な本がありますが、その著書に、実学の定義がある。その定義を見ますと、実学というのは、そういう革新、イノベーションなのです。やり方を変える学問が実学であるとしています。
 だから文明の再構築を通じて、いわゆる日本文化を新しく切り開いていく。それは日本文明の創造にも連なる。新しい学問を求め、鉄道や電信・電話など、文明の利器を外国から取り入れて、生活様式を変えていく。そのためにも慶応義塾を創設したというわけでありまして、実学というのは、生活の革新なんだと思います。保守と革新という場合の革新とは違う意味ですが、もっと根本的な生活のパターンを変えるということが、実学なんだということを福沢諭吉は言っています。
 私は適塾だけではなくて、懐徳堂学も、実学だと思います。その懐徳堂ができたのは、享保9年(1724年)です。享保というのは、今(平成7年)NHKで徳川吉宗のドラマが放映されていますが、享保の飢饉があったり、8代将軍吉宗が非常に苦労した、不況の時代です。そして、享保時代に苦労したのは、吉宗だけではなくて、むしろ一般の商家、あるいは農家もそうだったでしょう。確か、松山近郊(伊予郡松前町)の義農作兵衛というのは、このころの人ですね。農家も商家も、幕府も、大名も、皆苦労したのが、享保なんです。このような時、吉宗は学問を重視しました。それでこの懐徳堂も、創設したのは鴻池(こういけ)など大阪の豪商でありますけれども、やはり幕府からの下賜金、一定の資金はもらって創っているんです。
 よく懐徳堂は、大阪町人が創った、町人のための学問所だったと言われるのですが、確かに町人のための学問所だったんですけれども、町衆だけの力ではなくて、やはり幕府のバックアップがあってできたのが懐徳堂です。
 それで懐徳堂では、儒学すなわち論語とか孟子とか教えたんです。四書五経がテキストです。その教え方が朱子学ではなくて陽明学だった。陽明学と言えば、中江藤樹先生の、あの大洲の陽明学もそうです。それと三島由紀夫もそうですね。それから大阪では有名な大塩平八郎という天保8年(1837年)に大一揆を起こした大塩も、やはり陽明学者でした。
 陽明学というのは、朱子学とどう違うのか。それはいわゆる行動の学問です。つまり朱子学のように、孔子や孟子の教えを勉強するだけではなくて、いかにすれば生活に適応できるかという、行動的な学問です。
 それでこういう学問をする塾に商家の子弟や商家奉公人が入ってくるわけです。侍(さむらい)はほとんどこなかったようですね。商家の家政改革のために学問を身に付けることが目的です。あの享保期は、鴻池も住友も、皆商売がうまくいかない。元禄時代と比べますと、取り引きが半分ぐらいになった。だから商家はどんどん倒産するわけです。おまけに吉宗が、まずい貨幣政策をやって、元禄の改鋳(かいちゅう)(改悪)した貨幣をもとのいい貨幣に直したものですから、貨幣の流通量が半分になったんです。つまり、享保の改革はデフレ効果があったんです。商売が、がたがただったんですね。このようなわけで、町人にとって、もう1回、商売のやり方を考えないといけないという経営危機の時代を迎えたのです。そういう時の商家の心構えを勉強しようというのが、この懐徳堂なんです。
 私はここに、大阪町人の生きざまや行動原理が見られると思うのです。最近よくマスコミで、大阪は「もうかりまっか」の街だとか、利益追求の街だとか言われています。もうける、つまり商業利潤も必要でありますけれども、やはりちゃんと理屈にあった社会的に妥当な利潤を確保するというのが、大阪学のポイントの一つなんです。
 また、「やってみなはれ、見とくんなはれ」という、ある洋酒会社のキャッチフレーズともなっている行動原理がありますね。この「やってみなはれ」というのは「開拓者精神」ですね。当時、日本でウイスキーはできないと言われていた。ウイスキーはスコットランドのような気候でないとできないという考え方があったのですね。けれどもこの会社は思い切ってウイスキーを作りました。最初はうまくいかなくて、数年後の昭和の2、3年(1927、8年)のころになってやっと日の目をみるようになった。そして「見とくんなはれ」というのは、「PR精神」です。こういう行動原理が大阪にありますけれども、やはりその根底には、先にお話しました享保の不況期を乗り切るためには、ちゃんとした学問がなくてはならないという、大阪商人の、大阪の町衆の心意気というものが根底にあったのです。私は、それはやはり大阪商人の持っているバイタリティーだろうと思うんです。
 この開拓者精神というのが、大阪学のもう一つのポイントです。
 それからもう一つの、適塾というのは、これは緒方洪庵(おがたこうあん)先生という、備中(岡山県)の足守(あしもり)藩の武士が大阪で開設した蘭学塾です。
 緒方洪庵先生のお父さんが、足守藩の大阪蔵屋敷の藩役人をしていたんです。大阪に常駐していたわけです。それで洪庵先生は、生まれは足守藩ですが、大阪に来ていました。一方、福沢諭吉先生も、やはりお父さんが九州中津藩(大分県)の大阪蔵屋敷の藩役人で、大阪に派遣されていたわけです。ですから、福沢先生は大阪生まれなんです。大阪の米センターの堂島の生まれだったんです。そういうわけで、江戸時代の学問と大阪のビジネスとは深いかかわり合いがあり、特に米を中心とした取り引きですね、つまり大阪蔵屋敷と文化や学問とがリンクしていたんですね。
 だから学問というのは、決して現実と遊離しているものではなくて、商業や文化とは非常に密接な関係があって、それができた。そういう学問のルーツが大阪にはあったんじゃないかなという気がします。
 適塾で行われていたのは、主としてオランダ語を通じた医学の学習です。これは先ほど言いましたように、ぜひ見学していただきたいのですが、私も外国の人がみえますと、適塾の建物に案内します。周辺に大きなビルが立ち並ぶ中に、130坪ぐらいの狭い所に建物が本当にポツンと立っているわけでありますが、何か、日本における近代学問のルーツがわかるんじゃないかなと思うからです。先ほど、パネラーの方からの愛媛の民家のスライドを大変感銘深く拝見させていただきましたが、やはり百聞は一見にしかずですね。私は、外国人には大阪城と適塾と、それから私は貨幣史を専攻しているものですから、造幣局へ案内して行くのです。この三つを私は外国人の大阪案内の3点セットと言っています。
 それで適塾に関しまして、皆さんから教えていただきたいと思うんですが、二宮逸二さんというお医者さんが、そこで勉強をされていました。この逸二さんのことがあまりよくわからないのです。
 宇和島出身で二宮敬作さんという蘭法医がいました。この方はシーボルトの門下生で著名な方でありまして、敬作さんの息子が、逸二さんです。この方が適塾にいて勉強しているわけです。たまたま天保山にロシアのプチャーチンという提督の艦船ディアナ号がやって来ました。そしてこのプチャーチンは、大阪で日露条約を結びたいと言ってきたんです。それで大阪城代は、「困る」と断わり、「用があるなら下田港へ行け」と言って退散してもらうわけです。その時、逸二さんが父の敬作さんに、プチャーチンの黒船来航の模様を報告している面白い書翰(しょかん)が残されています。
 このように適塾は、やはり単なる医学塾ではなかった。医学は教えたんですけれども、洪庵先生自身が言っておらるように、「当今必用の西洋学者」、すなわち西洋の学問を身に付けた人材を育成することを重視したのでした。