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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇わが国の人形芝居の起こり

 それではまず、わが国の人形芝居の移り変わりにつきまして、お話してみたいと思います。人形をもって大道芸として大衆に披露されたのは、遠く今から1,000年ほど前の奈良時代からだと言われております。当時は木の木偶(くぐつ)を作って、ただ舞わしていたと言うことでございますが、室町末期の1570年ころに、それに、琉球から伝わった蛇皮線(じゃびせん)の伴奏がつき、劇作者の脚本によって、一つのストーリーが演じられるようになりできました。足利将軍、あるいは織田信長、豊臣秀吉といった諸大名の前で、人形芝居の興業がなされたという記録が、残っているようでございます。
 人形の発祥の地は、兵庫県の淡路島三原郡三原町市三条と言うところでございまして、現在もそこに、人形芝居発祥の地という記念碑が残っています。
 今から220年ほど前、江戸中期の1770年、これは明和年間でございますが、竹田出雲という、興業主であり、また劇作者が、一つの人形を3人で遣うという、「三人遣い」を発明されたようでございます。それまでは、一つの人形を一人で遣うという幼稚な芸でございました。
 三人遣いは、主遣いが自分の左手で人形の頭を持ち、人形の右手を自分の右手で持って操ります。そして左遣いは、自分の右手で人形の左手を遣い、頭や胴体の動きによって操ります。足遣いは、両手で人形の両足を持って足を動かしていく、このような三人遣いが発明されました。
 次に、現在、日本全国でどのような形態で、この民俗芸能が残っているかということを見てみますと、北は北海道から南は九州鹿児島まで、105の保存団体が残っているようです。一番多いところは群馬県で13団体、神奈川県、長野県が9団体ございます。それから、鳥取県、福岡県、愛媛県が多いようで、愛媛県には五つの保存団体が残っております。全国的にはこのような現状で、人形芝居というものが伝承されているようです。
 それで人形芝居の伝承された流れを見てみますと、淡路系の人形と、大阪文楽系の人形の二つの流れがございます。しかし、この文楽という名称も、実は淡路から出た人の名前でございまして、1788年ころ、淡路の出身で、植村文楽軒という人が、大阪の高須というところで、人形芝居の常設の小屋を作って、そこで芝居を上演したのが文楽という人形芝居の起こりだと言われております。
 淡路系の人形と、文楽系の人形の違いは、淡路系の人形芝居は大衆芸として、お寺の境内とか、お宮の境内であるとか、あるいは広場に仮設の小屋を建てて演ずるわけで、舞台装置は粗野でございます。そして人形を主として見ていただくという内容になっております。広場でございますから義太夫を語っても、あまり細かい節回しができないということで、ただ太い大きな声で語り、人形を派手に遣う、これが淡路系人形の特長でございます。人形の頭も6寸(約18cm)以上というようになっております。
 これに対し大阪文楽の方は、劇場で発展したものですから、舞台装置が洗練されておりますし、人形の表現も写実的で繊細でございまして、人間の動きそのままに表現されております。大阪文楽は語りが主でございます。そして人形の頭も小さく4寸(約12cm)ぐらいとされております。
 淡路系の芝居は見せるということ、大阪文楽は聞かせるということが、大きな違いだと言われております。