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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇もともと、南予は住みやすかった

 失礼いたします。御紹介いただきました、井上です。
 「愛媛県人がどういう気質かを、一言で」と言われましても、土佐(高知県)とか長州(山口県)とかと違って、なかなか言えないんです。しいて言えば、東、中、南予で区別して、東予は「はしこい(悪く言えば、抜け目がない)。」、中予は「鷹揚(おうよう)である(悪く言えば、えらそうな)。」、南予は「お人好しである(悪く言えば、とろい)。」ということになります。言葉も、南予は関東調ですが、中予から向こうは関西弁です。
 「徳川300年」とよく言いますけれども、少なくとも幕藩体制の265年の間続いた伊達藩(宇和島藩主)の残滓(ざんし)を、いまだに引きずって、私たちは今日生きているわけなんです。これは、現在の政治・経済のすべてにわたって、そういう風潮が残っております。
 もともと、宇和島を含めたこの南予の地は、非常に住みよい所であったようです。その証拠に、南宇和郡には貝塚もありますし、縄文文化、弥生式文化、あるいは古墳文化など、いわゆる古代からの遺跡もたくさん残っております。そして、「藤原純友の乱」(935~941年)は歴史上有名ですが、この乱を平定した橘遠保(たちばなのとおやす)という人が、約300年間にわたってこの地方を治めます。その後、「あの土地が欲しい。」というので、京都の公家さんである西園寺家が申し出て、鎌倉幕府からこの土地を得て、荘園にしております。その当時西園寺家は太政大臣ですから、住みにくい所・物が取れない所だったら、そういう願望を出すわけがありません。やはりこの土地が良かったんでしょう。
 けれども、現在の愛媛県が「八藩(宇和島、吉田、大洲、新谷、松山、今治、小松、西条)と天領」となっていたいわゆる幕藩時代に入りますと、様子は一変します。二百何十年の間に、百姓一揆が150回ぐらい起こっておりますが、そのうちの3分の2(約100回)が、この南予で起こっているんです。ですから幕藩当時は、東中予の藩に比べて、この南予の領民は、いかにつらいくらしをしていたかということになるわけなんです。
 あれだけ西園寺家が欲しがり、くらしやすいと思われていた土地が、それはどきつくなったというところから、今日の宇和島を考えてみたいと思います。