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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇城下町の意味

塚本
 私の住んでいる千葉県佐倉市も、宇和島とだいたい同じ規模の城下町なんです。さらに、宇和島では、伊達宗城(だてむねなり)という名君が幕末に現れ、オランダの科学技術を積極的に取り入れたりされたとうかがっておりますが、同じころに佐倉でも、オランダの科学技術を取り入れるのに非常に熱心で、「蘭癖(らんぺき)(オランダ好みの癖)」とも言われ、幕府の老中もやった堀田正睦(ほったまさよし)という殿様が出ておりますから、その点でも、佐倉と宇和島は、共通点がございます。
 この城下町の文化を考える場合にも、先ほどの「都会」の論理でいきますと、殿様中心ではないところで考えたほうがいいんじゃないでしょうか。伊達宗城とか、堀田正睦とかいう人はたしかに優れた藩主で、宇和島にも佐倉にも、彼らが残したものがなんらかの形で伝わっているでしょうから、無視はできない。けれども、殿様中心に考えますと、伊達にしても堀田にしても将軍家の下にいるわけですから、宇和島や佐倉は、江戸のブランチ(出張所)として置かれた城下町にすぎないことになり、「ただ、上から流されてきたものが、云々…。」という考えになってしまいます。城下町を、江戸のブランチと考えると、いかにお祭りが立派であろうと、江戸の三社(さんじゃ)祭りには及ばないなんてことになっちゃう。
 そうではなくて、たとえば宇和島の城下町なら、「このあたり(南予)一帯の地形・風土・気候、そしてそれに根ざした産業や、これを地盤にしてその周りから集まったいろんな人たち(集めたのは殿様であっても)によって、宇和島の町というものの個性が出てくるんだ。」というふうに、城下町を考えていったらどうでしょうか。宇和島地方にも、いろいろおもしろいお祭りがありますが、これは決して江戸から流れて来たものではなくて、土地の文化の中から出たものです。ですから、城下町を、それぞれの地域地域の文化の一結集点としてとらえ、これを大事にしていくというふうに、考えていきたいと思います。
 先ほど、佐倉と宇和島には共通点があると申しましたが、違う所もございます。現在、佐倉の町は、東京のベッドタウンになっちゃいまして、元からの佐倉の市民よりも、よそから来て佐倉に住み着いた方(いわゆる「新住民」。私も千葉県生まれではなくて、現在は佐倉市民なんですが)のほうが、むしろ多いぐらいです。そういう新住民の方のほうが、案外佐倉の歴史を知りたがっているんです。自然だけではなく、長い歴史の間に、そこに住んできた人たちの人為が加わって、その土地の環境というものができてきたわけですから、よそから来た方々も、将来にわたってそこから影響もされますし、やはりそういう物に関心を示して何か学んでいこうという意欲を持つものなんです。佐倉の城下町で上に立っていたのはお侍さんで、だいたいはよそから来た人ですから、当時のお侍さんにも、同じような面があったのではないかと思います。
 佐倉の殿様はしょっちゅう変わっておりましたが、宇和島藩の場合は、(初めはしばらくの間変わっていますけれども)17世紀の前半からずっと伊達家の城下町として続いてきます。そうしますと、お侍たちも、宇和島という土地(町)だけではなく、周辺からいろんな人が集まってできた宇和島という町の文化を受けて、自分たちの感覚や考えを言うようになってきたんじゃないかと思います。
 町の文化形成にとっては、文字からの知識(上から下への文化)以上に、日常の生活経験の中から身に付けた知恵や文化(下から上への文化)のほうが、影響が大きいと思うんです。
 人間は、学問とか文字の上の知識だけで、生きていくものではありません。やはりこまごまとした日常生活というのが、どんなに大事なことかというのを思い知らされる機会は、公害とかなんとかいう場面なんかを初めとして、いろいろ我々、身につまされて、知らされてきています。「歴史家というのは、これまでとかく頭でっかちな人間ばかり描いてきた。」という指摘をした西洋中世史の研究家がいましたが、私もそのとおりだと思います。
 私は、40年ほど前に、定時制高校で社会科の教師をしていたことがあります。そのころ、「生意気盛りの若い青年教師」であった私は、永井先生には悪いですけれども、家庭科の先生方をばかにしていたことがあったんです。と言うのは、社会科(歴史)の先生は、「天下国家のことを考えて論じている。」のに、家庭科の先生は、「お料理とかお裁縫とか、(当時の私の感覚ですと)つまらないことをチョコチョコやっている。」というふうなことを考えたことがあったんです。今思うと、これは悪いことをしたと反省しておりますので、御勘弁いただきたいと思います。
 若い人の学歴がどんどん高くなって、学問や知識が広がった世界ですけれども、やはり赤ん坊が成長して御飯を初めて食べるという時に、「こっちの手でお箸(はし)を持ちなさい。こっちの手でお茶碗を持ちなさい。」なんてことは、いかに育児マニュアルに頼るお母さんだって、本の知識で覚えて子供に教えるわけではない。また、かつては、飢饉(ききん)の時にどういう物を食べたら生きられるかということが、人々にとって非常に大きな問題でしたが、これも文字上の知識ではなくて、年配の人の経験から学んでおりました。このように、人間が生物として生きていく上で本当に必要なことは、文字上に表せないところに、ずいぶんたくさんあるんです。
 「どこへ行っても東京の二番煎(せん)じだ」というのではなく、多様で豊かな文化が生まれていくためには、「日常生活の中で人々の生き方が生み出した文化」や、「それぞれの地域の自然環境の中で生まれた地域ごとの個性・文化」をもとに、考えていくことが大切ではないかと考えております。

永井
 日常生活や地域の風土から生み出された「下から上への文化」のほうが「上から下の文化」よりも重要であるという認識が、自分の住む町の歴史を学ぶ際の基本であるといった、先ほどの塚本先生のお話は、なるほどなという気がいたしました。