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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇地域の個性の発見

塚本
 「愛媛学」の御趣旨は、「愛媛県」という範囲であろうと「宇和島」という町であろうと、「どこでも東京をまねしたような画一的な町ではなく、地域の個性を生かした町づくり、郷土づくりを進めていこう。」ということであろうと拝察します。これは大変けっこうなことだと思いますが、その過程では、ちょっとおおげさですけれども、「私どもの中にどうしても入っているある考え方を、たたいていかなくてはならない。」と、そんな感じを私は持っております。
 「たたくべき考え方」と申しますのは、「どこかに大きな文化の中心地があって、それを受け止めていくことによって、各地の文化が発展するんだ。」、もっと端的に言うならば、「東京なり、古くは京都なりの文化があちこちに広がって、宇和島なり松山なりの文化が生まれたんだ。」というもので、そういう考え方は否定していかなくてはならないと思っております。
 たとえば、蒸気船の製造に関しては、薩摩(さつま)藩(現在の鹿児島県)が1番、宇和島藩がたしか全国で2番目だったでしょうか。宇和島のほうが、江戸や京都(いわば当時の日本の首府)よりも明らかに先進的だったわけです。この例一つ取っても、「すべての文化が、京都なり江戸から広がったのではない。」ということが言えますが、それだけではなく、実は、ずいぶん奥深い問題、広がった問題になるのです。
 「文字で書いたものが文化であって、学問とか芸術とかは、文字を通して伝わる。」という考え方に立ちますと、「中国の文化が、そもそも田舎であった日本に文字とともに及んで、初めて日本に文化が生まれた。」ということになってしまうわけです。中国から文字や書物が伝わり、その影響を受けて、日本でも本ができたり文字を使った学芸が生まれたりしたのは確かで、文字に関してはそうだと思います。
 ところが、文字を早く知った支配層の人々の間には、このことを誇張した歴史の見方を広げようとする空気が、古くからあったようです。たとえば、江戸時代の儒学者の中には、「割に古い時期から、日本に住んでいた人はあったに違いないが、孔子、孟子の教え(儒学)が中国から日本に伝えられる前には、日本人は、鳥や獣みたいに全く野生のくらしをしていて、親子・夫婦なんていう人間関係の倫理も全くなかった。孔子、孟子の教えが中国から伝わることによって、初めて日本の住民は人間らしくなった。」というようなことを、まともに信用していた人がいたんです。
 これは常識的に考えても全く当たらないことで、当然、「それは間違っている。」と主張した人々が、江戸時代にも何人も出ています。たとえば、本居宣長(もとおりのりなが)に代表される国学者たちが、「中国の文明が伝わる前にも、日本にはちゃんと人々の文化があった。文字というものを知る前にも、日本には日本の道があった。」というふうに、強く主張したわけです。
 また、江戸時代に文字を盛んに使って本を書いていたような人は、やはり京都、大阪なり江戸なりの都会人でしたから、一面では、田舎の人をばかにしたり下手に見る空気があって、「田舎は、低い劣った所だ。」という見方があったのです。このような見方に対しても、たとえば本居宣長が「田舎にこそ昔からの雅(みやび)やかな言葉が残っている(田舎に古(いにしえ)の雅ごとの残れること)。」と言ったり、江戸時代の日本の田舎文化を発掘した国学者たちが、「言葉だけでなく風俗や習慣も、昔の雅やかな空気が田舎に残っていて、都会では崩れている。」というふうに主張したりしました。さらに、一見、本居宣長と対立したかに見える漢学者の荻生徂来(おぎゅうそらい)や、長崎にいて後の蘭学者の先駆にあたる西川如見(にしかわじょけん)も、同じような言い方をしておりますし、この考え方は、近代に至っては、柳田国男(やなぎだくにお)先生にも受け継がれているんです。
 これは、都会人の田舎べっ視、あるいは方言に対する偏見を正していくうえでは、正しかったし、良かったと思うんですが、よく考えてみると、私はこの考え方にも問題があると思うんです。