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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇五色浜の景観

 次に、五色浜について述べてみたいと思います。
 五色浜には、美しい松林の中に、歴史を物語る碑や句碑が多く、また、古い灯台や「栄螺(さざえ)堀」、彩浜館、五色浜神社などがあります。
 まず古い灯台ですが、当時の萬安港は、波が激しく、砂や小石で港の口が浅くなり、船の出入りに大変困難をきたしていました。そこで明治2年(1869年)、長さ40間(約73m)の石垣船留めを築き、その先端に、明治3年、灯台が作られました。その後、さらに港を改修し、大正元年(1912年)、今の場所に移されました。夕日を受けて立つ灯台の姿は、まさに一幅の絵のように思われます。
 また栄螺堀は、文化9年(1812年)、萬安港の工事が始められた当時の船泊まりに、石を積み上げ、埋め残して築いた螺旋状の堀で、萬安港の潮の干満を見たということです。築き方や形が非常に珍しく、日本では他に例を見ないと聞いております。
 なお、広島在住の日本画家、平田周子(かねこ)先生が、伊予市へお見えになりまして、五色浜へ御案内いたしましたところ、強くこの栄螺堀に興味を持たれ、この栄螺堀を見ていると、本当に歴史の重みを感じますと言いながら、早速、スケッチに取り掛かられました。その後、先生の絵は、芸術公論の昭和63年9月号にも掲載されましたが、平田先生は、この絵は、栄螺堀がある伊予市においてこそ値打ちがあるし、意義があるのではないでしょうかというように、「伊予市歴史文化の会」の方へお声をおかけいただきましたので、歴史文化の会を通じて、伊予市に寄贈していただき、今、彩浜館の方に陳列してあります。
 彩浜館につきましては、皆様よく御存じのことと思いますが、明治27年(1884年)、道後温泉本館ができたあと、同じような形式で回り廊下のある珍しい建物として、郡中有志の手によって建築されました。現在の建物は、できるだけ古い建物に近い形で平成元年再建されたものです。この彩浜館では、明治37年(1904年)、伊予鉄道社長、郡中町長、郡中町有志らによって、松山よりロシア人捕虜一行を迎え、もてなしをしたり、また、明治42年(1909年)には、伊藤博文が当館へ来遊されるなど、建築以来現在まで、広く市民に利用され親しまれてきております。
 次に、五色浜の全体の形を整えている松林ですが、これは明治45年(1912年)、時の藤谷豊城町長が魚付林として植えられた松が、このように立派になったものです。沖に見える島々の景観、内港の風景、南方の連山など、まことに素晴らしく、春は桜、夏は海水浴、秋は月見にと、四季を通じて異なった趣きがあります。
 最後に五色浜の今後の展望ということで、私なりにお話してみたいと思います。
 五色浜より伊予灘を望みますと、伊予の小富士と言われる興居島(ごごしま)の端正な姿とともに、由利島、中島、晴れた日には遠く中国地方の山々を見ることができます。
 西は、尾崎の煮干し干す生活のにおいのする海岸、海を豊かにする中予水産試験場、扶桑木(ふそうぼく)の眠る森の海岸と続き、海に迫る山々は、双海、長浜へと伸びています。東は、大分行きスピーダーの発着する伊予港、先ほど紺田さんがお話になられた郡中漁港と、活気ある姿を見せ、さらに、美しい白砂の新川(しんかわ)海岸、松前、垣生(はぶ)、松山港へと続いております。
 先日来、私は、この海岸線を何度も歩いてみました。五色浜の灯台の端より、両手を広げますと、今申し上げました景色が、腕の中にすっぽりと入るような気がいたします。まさに五色浜は、この海岸線における、おへそのような気がしてなりません。人間の体もおへそが中心です。『郡中巷衢創業原誌』に、「伊予一州の美は、伊予郡に集まり、伊予郡の美は今日の郡中に集まるなり」とありますが、五色浜こそ、伊予市、伊予郡の中心として、各方面に向け、発展繁栄させ、この美しく価値ある五色浜を、より魅力ある五色浜として、市民の皆様とともに努力して後世に残していきたいものと思います。


明治初期の灯台

明治初期の灯台


五色浜の松林

五色浜の松林