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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇伊予漁協の現状

 伊予漁業協同組合婦人部の紺田でございます。
 わたしたちの伊予漁協は、現在、組合員58名、準組合員25名、計83名で、イワシ船引き網7統、小型底引き網25統、刺し網2統で構成されています。
 「わがふるさとと愛媛学」という大変大きなテーマをいただき、答えになるかどうか自信はありませんが、生まれ育った浜、明るく住みよい漁村づくりをモットーに頑張っている仲間たちと、わたしたち漁民のくらしをお話してみたいと思います。
 先ほどの山本先生のお話にもあったように、郡中港は、わたしたち漁民にとっても、大切な生活の基盤であり、伊予市の西の玄関と言っても間違いないと思います。
 わたしたちの先輩の話によりますと、港の発展とともに漁業も盛んになり、明治34年(1901年)、漁業法発布以来、明治、大正、昭和にわたるいろんな人たちの努力や、また、宇品騒動、魚市場騒動など、いろいろな事件の解決などにより、戦後、郡中漁業協同組合が設立され、昭和26年(1951年)には伊予漁業協同組合となりました。昭和35年(1960年)に、事務所が湊町青年会館(現在の湊町会館)から現在地(灘町)へ移動、昭和44年(1969年)に北山崎漁協と合併し、現在の伊予漁業協同組合となりました。当初は、組合員数111名、従事者所帯数300と言われた大所帯だったそうです。
 当地の漁業の中心だった地引き網は、昭和40年ころから、近代化とともに船も手漕(こ)ぎ、櫓(ろ)漕ぎから機械化され、船引き沖獲りとなりました。また、底引き網も櫓漕ぎの伝馬船から機械化されて、3~5トンの大型船となり、木炭エンジンからディーゼルエンジン化されていくとともに、次第に漁場を広げていきました。
 地引き網は、知っておられる方もいると思いますが、昔は、腰引きと言って、10人、20人が、綱を引き網を上げておりましたが、やがて沖獲り網になりました。(昭和38年ころ)底引きのほうもチリメンもエビも漁獲を上げ、大きな冷凍庫まで利用されるような時代を築いてきました。しかし、現在は漁獲不振が続いている状況です。