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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇昭和以降の変遷②

 (写真6)
 昭和43年(1968年)に造成された御串(みくし)通りです。今は便利になりましたが、もったいない景観をなくしてしまいました。


 (写真7)
 昭和25年(1950年)ころの春の大祭の際の、港の賑わいです。大漁旗をなびかせた船が一杯に宮浦港に入っておりますが、その船を見に行くのも、子供のころには楽しみの一つでした。


 (写真8)
 このほかにも、大三島には、かけがえのない素晴らしい自然がありました。
 昭和38年(1963年)、国宝館の「紫陽(しよう)殿」が完成した時のものです。これを見ますと、明日(あけび)のほうの山には、麦とか除虫菊(じょちゅうぎく)とか芋とかいうものに変わりまして、ミカンの苗木が植えられています。本川と明治川の松並木がきれいですし、この松並木や白い砂浜がそっくりそのまま残されて、懐かしい自然の風景です。
 バイパスもありませんし、自然がまだそのままそっくり残っていて、埋め立てられておりません。


 (写真9)
 現在のものです。様子が変わっていることがわかります。
 交通手段が船から車に変わる昭和50年代までは、春と秋の大祭のほかに、夏分は、土用の虫送りのお参りのお客様が多く、お宮で神火をいただき、火縄にうつしては、その火縄をクルクル回しながら、参道を下る参拝客の姿が多うございました。


 (写真10)
 商売で来られるお客様も、船の時代は宿泊され、お得意様を回られることが多うございましたが、道路が整備された車社会の今日では、その日のうちに仕事を済まされて、お帰りになるようになりました。
 反面、交通の便が良くなり、情報化時代の到来とともに大山祇神社の国宝も全国に知られるようになり観光客は増えてきています。昭和40年には、愛媛汽船のカーフェリーや中四国フェリーが就航し、44年には、松山―尾道間に水中翼船が就航しています。さらに昭和46年に、陸では宮浦、宗方間のバスが全面開通し、そして47年にはSTSラインが就航、といった具合に、大三島らしい交通網が飛躍的に整備されたことにより、大三島を訪れる観光客も、昭和40年には25万人であったのが、50年には35万人。大三島橋が開通しました54年には50万人と倍増しています。
 しかし、これをピークに57年には35万人、60年には30万人と、漸次減少の一途をたどっておりますが、西瀬戸自動車道の全面開通する平成10年以降は、これまでにない形の観光客がドッとこの大三島を訪れることになると思います。もう目の前に、その時が来ております。
 日本一のミカンづくりをされている農家の皆さんも、新しい技術で栽培漁業をされている方も、そして地域性を生かしながら頑張って、製造業に励んでおられる社長さん方も、不景気と過疎、高齢化で、物が売れないとぼやいておられる商店の方も、もう一度、この目の前のすばらしい大山祇神社と、その関係の文化財に目をやり、どうしたら自分たちの生活に利用させてもらえるかを、額を寄せ合って考え、知恵を絞っていこうではありませんか。
 もちろん、江戸時代のお国潤い政策ではありませんが、愛媛県、大三島町の行政はもちろんのこと、官民一体となって、大三島の生き残りをかけて、頑張っていきたいと思います。たいへん、口はばったいことを申し上げましたが、賢明な皆さんの御判断と行動に期待いたしております。