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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇次に怖いのは「殿様」

 もう少し時代が下りまして、多少興味のある話をいたします。江戸時代になりますと、火事の次にもう一つ怖い、お殿様の問題が出てくるのです。
 御承知のように、松山の藩主がここ大三島のお殿様でございました。松山の殿様が参勤交代で江戸へ行くときには、原則として、今の三津(みつ)(松山市)から船に乗り、室津(むろのつ)(現在の兵庫県御津(みつ)町)までが船で、この瀬戸内海を通って行ったり来たりするわけでございます。このような参勤交代のときや、いろんな御祈願のときに、藩主である殿様が、直接大山祇神社に参拝においでになられて宝物を御覧になります。特にお好きな殿様から、「大山祇神社で見るだけでは物足りないので、お城へ持って来い。」という命令が下るわけでございます。当時の殿様には「三権すべての長」というようなすごい力がございましたので、お殿様の鶴の一声で、必ず持っていかなければならない。
 江戸時代の日誌でちょっと紹介いたしますと、「寛政3年(1791年)6月、御宝物御覧、万端異なることなく相済ませ、御退出あそばされ候につき、父子、おなり門前へまかり出で候…。」という記録があり、要するに、お殿様がまず神社で参拝をして、宝物を御覧になっているわけです。それからしばらくすると、「あれを持って来い。」と言うんです。それで、同じ寛政3年7月には、「御宝物のうち左の通り、先月御覧の分、またまた、松山御館へお取り寄せなされ、ゆるゆる御覧あそばされたく、一昨、15日、おおせいだされ候と言って、天(あま)のさかほこ、大塔宮御宝の御太刀、小松内大臣奉納の太刀…。」と記録されており、「宝物をいくつかお城へ持って来い。」と書いてあるんです。日誌に、「またまた」と書いてあるくらいだから、再々あったんですね。
 五つ持って来いと言われたんですが、一つはどうしても具合が悪いというので、4品だけ持って行ったんですが、なかなか帰ってこない。それで、もう少したつと催促をしております。同じく寛政3年7月28日に、「御宝物4品は、いまだ御前より下り申さず候段、お目付け所にて聞かされた。」と、こう書いてあるんです。
 1か月たってもまだ返してもらえない。それで、いつ返してもらったのかなと思って日誌を繰っておりますと、それから2年あとの寛政5年になっても、まだ返してもらえないんで、催促しているんです。それで、「寛政3年7月17日に大山祇神社から持って行った4品は、まだ三島へ戻っていません。それで内々で聞くと、『大山祇神社の宝物を、殿様が江戸へ持って行っちゃって、なかなか返して来ない。』という噂でございます。」と、書いてあるんです。はっきりわかっているんだけれども、家来としては、「いや、あれは殿様が返さないんだ。」とは言えないから、「噂これあり。」という言い方をしているんです。
 ここに出てくる物の大半は大山祇神社にございますので、返ってきたんだと思いますが、このような記録は、ほかにもいくつも出てまいります。最後にどうなったかは、殿様に聞いてみないとわかりません。
 宝物を守るという意味では、そういう心配もあったわけです。