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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

□主婦の目で見た、三瓶農業の変遷(濱田マスミ)

 ただいま御紹介いただきました濱田マスミと申します。
 私は、学校を卒業しまして、2年間、教職についておりましたが、縁がありまして、終戦後間もない昭和21年(1946年)に、網元であります濱田家に嫁いでまいりました。その当時は網元と言いましても、四つ張り網が主体でございましたが、地引き網も、まだいい時には引いているような状態でした。でもその地引き網は、2、3年くらいやりましたでしょうか、やがて四つ張り網一本の漁になっていきました。
 当時は、ただいま、浜田類治さんもおっしゃいましたように、それぞれの船に、集魚灯用の大きなバッテリーを積み込んで出ていっておりましたが、だんだん船も大きくなり、漁場も広がっていきました。
 生活状態を申しますと、皆さんも御経験されたことと思いますが、漁をしながら、裏山の段々畑でイモやムギを作っておりました。そして、夏場はそのイモを切り干しにして保存しまして、カンコロを炊いたり、イモ団子と言いますか、イモ餅と言いますか、粉にしてそういうものを作って、その当時流行しました言葉に代用食という言葉がありましたが、主食の代わりにしていたような時代でございました。
 副食と言いますと、取って来ましたホウタレをイリコにして、そのイリコを食べるとか、メザシにして食べるとか、いわば自給自足のような生活が、しばらく続いておりました。
 船の方も、さっきの浜田さんのお話にもありましたように、次第に大きくなりますとともに、網船が動力化されてまいりました。船が動力化されますと、やがてそのバッテリーはいらなくなりまして、代わりに、無線機が、そして、魚群探知機(魚探)が、座るようになってきました。そういうふうにして、船の方の機械化も進んでまいりました。網も、さっきもおっしゃられましたように、ナイロン網に変わってまいりましたので、ずいぶん扱いやすくなりました。昭和30年(1955年)ころですか、三瓶に、無線の海岸局もできまして、陸上と船との連絡も簡単に取れるようになりました。
 そのころではなかったかと思いますが、製氷会社もできまして、氷を積んで、カタクチイワシを取りにいくというような時代になってまいりました。鮮度のいいホウタレを取ってきて、製造しますものですから、きれいな商品ができますし、大漁の時には、スダイという台に干しておりましたが、それが道の両端いっぱいに並んでいる光景も、よく見かけられました。
 そういうような昔の良き時代でしたが、魚探とかナイロン網などを初めて使う時には、ずいぶん苦労もあったようです。魚探の見方が分からないとか、網にしても、軽くなりましたものですから、うまく沈まないとかいうようなことでしたが、慣れますと、それはとても扱いやすくなってきたように言っておりました。と言いますのも、私の主人も、結婚しましてから昭和33年(1958年)まで、四つ張り網の仕事に携わっておりました。その後、今の会社に入りまして、漁船だけではありませんが、主に船をお得意様としまして、無線機とか、エンジンとか、漁業機器とか、そういうものを扱ってきたわけです。
 話がまた、漁業の方に戻りますが、先ほども言われましたように、漁場も次第に広がり、カタクチイワシの漁も最盛期を迎えましたが、やがて、カタクチイワシから、アジ、サバというような魚に変わってまいりますとともに、巻網漁業がさかんになり、間もなく、巻網漁業の最盛期を迎えるわけです。しかし、その巻網漁業も、乱獲が原因でしょうか、やがて魚が取れなくなったり、魚価が値崩れを起こしたりして、現在では、わずかしか行なわれていない状態になっております。
 四つ張り網は、湾内には、どの集落にもありましたが、特に終戦後、景気の良かったのは周木地区のサバはねつり(撥釣)漁業、私たちは、サバ船と言っておりましたが、そのサバはねつり漁業と、それから長早(ながはや)地区にたくさんありました、カジキマグロを突きます、突き棒漁業でした。この二つは、戦前もあったと聞いてはおりますが、戦後、大変目ざましい発展を遂げまして、最盛期にはサバ船が11隻、突き棒船が13隻も出ていたようでございます。
 サバ船は、はじめは、韓国の済州(さいしゅう)島(チェジュ島)、それから東シナ海に漁場を変えて、出ていっておりました。その収益は大変大きく、しばらくの間、サバ船景気とでもいうような景気が続きました。中学を卒業して、サバ船に3年も乗れば家が建つというようなお話も聞いたことがあるくらいでした。突き棒船のほうも、済州島とか、三陸沖のほうに出ておりました。これも漁果がよく、相当の成績を上げていったようでして、今考えてみますと、当時、三瓶は漁業の町として本当に活気のある町であったように思います。
 でも、このような一時の好景気の陰には、朝鮮戦争のあと、李承晩(りしょうばん)ライン(昭和27年〔1952年〕、韓国大統領李承晩により設定された漁船立入禁止線。このため、済州島付近から対馬海峡におけての海域で、わが国の漁船の操業が禁止された。)というものが設けられ、その中に入ったということで、サバ船が1隻と、それから突き棒船が1隻だ捕されたことがありました。乗組員が、サバ船が40数名、突き棒船の場合、10名ほどが韓国に抑留されてしまいました。船と抑留者の返還運動とか、いろいろ慰問品をこちらから送るというようなこともしましたが、抑留の期間は、2年9か月くらいにもなったと言います。その抑留中に、向こうで亡くなられた方も1名おられたと聞いております。豊漁の陰には、このような暗い出来事もあったということです。
 東シナ海では、昭和35年ころから、長崎や山口のほうの大型巻網船が操業するようになり、三瓶のはねつり(サバ船)は、太刀打ちできず、だんだん東シナ海から姿を消していったと聞いております。
 このようにはねつりがだめになりましたものですから、三瓶でも大型巻網を始めました。福岡を基地に、東シナ海を漁場に、以来ずっと、今も1統は操業を続けております。
 このように三瓶の漁業も、だんだん変わっていくのですが、昭和37年(1962年)には、また、大変な事故がありました。サバ船が東シナ海から撤退しなくてはいけないようになりましたので、マグロ漁業に切り換えて、大きい船2隻をマグロ船に改造し、遠洋のサモア諸島の方へ出航しましたが、2隻とも前後して遭難し、合わせて60名の乗組員の方々が、亡くなられるという大惨事が起こりました。
 昭和40年(1965年)ころになりますと、タンカー船ができ始めまして、突き棒船の乗組員さんたちが、だんだんタンカー船のほうに変わっていったようです。サバ船をやっている方の中にも、タンカー船に乗り換えられる方とか、いろいろできました。
 最近では、昭和44年から、主に日本海を漁場として、イカ釣り漁業が始められました。47年には350トンぐらいの大きな船になり、ニュージーランドの方まで出漁するようになりました。最初のころは、ニュージーランドと、日本の間を往復したりしていましたが、現在ではペルー沖、さらに、アルゼンチンのフォークランド諸島ですか、あのあたりまで出漁するようになりました。現在は、ペルー沖にいるそうですが、12月から1月、2月には、また、ニュージーランドの方に帰って漁をするという話も聞いております。
 このように、三瓶の漁業もだんだんと移り変わっていきますが、養殖漁業も、その一つで、先ほども浜田さんのほうから、真珠の養殖などのお話がありましたが、母貝の養殖だけでなくて、何年間かは玉入れ、真珠の生産もしていました。当時は真珠を出しますと、貝柱ができますので、その貝柱をよくもらって食べたものでした。
 真珠が終わりを告げるころに、ハマチの養殖が始まりました。養殖のために、昭和46年ころだったと思いますが、三瓶の下泊の沖合に、消波堤まででき、ハマチ養殖は全盛期を迎え、ハマチブームに沸いておりました。昭和50年(1975年)ころには、20に余る業者ができ、その生産量は愛媛県一だったということです。取る漁業から、今度は作る漁業に変わっていったわけです。
 しかし、それもやがて生産過剰、作りすぎになりまして、だんだんと値崩れをおこして、現在ではハマチだけではなくて、イシダイとか、アジ、スズキとかフグとかタイなど、いろいろな魚種を養殖するようになってまいりました。ハマチは全盛期の10分の1ぐらいではなかろうかという話も聞いております。昭和60年ころから、今度はヒラメの養殖が盛んになってまいりました。これは、陸上でも管理できるということで、大変ブームになりまして、現在、8業者ぐらいが養殖をやっているようです。高級魚ということで、大変大事に扱われているようです。
 そのようないろいろな養殖をするために、平成2年ですか、種苗センター管理組合というのができまして、そこで種苗を育成して、養殖漁業の効率を上げるように努力をしているところです。
 いずれにいたしましても、最近の消費者の魚離れと言いますか、主婦の魚離れと言うんでしょうか、魚の消費量が大変少なくなっておりますし、それに加えて、漁業においても国際化が進んでいますので、魚の全消費量の70%ぐらいが輸入されているというお話も聞いております。このようなことを考えますと、今まで沿岸から沖合にと発展していきました三瓶の漁業でしたが、その前途は、なかなか厳しいものがあるように思います。