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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇宇摩地方に、なぜ製紙が栄えたのか

 旧川之江町は天領、幕府の直轄領でございましたし、旧上分(かみぶん)村は西条藩でございました。したがって『西条誌』に、「川あり、上分川と言う。この川に土佐、阿波への道二すじあり。南を向き、新宮村へ入れば土佐になり、阿波境まで二里あまり、土佐境まで五里あまりあり。阿波の三好郡のうち十か所あまり、土佐本山(もとやま)郷のうち十か所ほどのもの、コウゾ、ミツマタ、ハゼの実等をはじめ、いろいろの産物を出すには、必ず当所(上分)を経て、三島、川之江等の町にひさぐ(商いに行った)。」という記録が残っております。この古文書がちょうど1830年でございますから、今から160年ほど前になります。
 この記録は、しごく簡単ではございますけれども、宇摩地方の製紙の歴史を知るうえで非常に大切な資料で、伊予の紙を語るには、この記録が一つの大きな基準になっています。と申しますのも、ちょうどそのころに、三島に紙役所ができました。そして紙の始まったのが、宝暦年間(1751~1764年)、だいたい240年ほど前と言います。1751年には、この金砂の山奥で紙を漉いたであろうという記録が残っております。したがって、宇摩郡の製紙というのは、金砂の山奥で隠れて漉いた時から、平たん部に下りてきて、製紙の基盤ができたというのが、そのころの『西条誌』の記録になるわけでございます。
 そんなことで、私の祖父の時代から、当地方にありました自生のミツマタとかコウゾが間に合わなくなって、阿波や土佐ヘミツマタを買い付けに行ったということがあったようです。馬の背中にミツマタを積んで、帰ってくるのが夜の9時、10時。倉庫の中へ入れる荷受けを、提灯(ちょうちん)を下げて手伝った子供のころを、思い出します。今ここでお話をしながらでも、製紙原料のミツマタ・コウゾの匂(にお)いを忘れることができません。
 さて、「どうして、宇摩地方の製紙がこんなに栄えたのだろうか。」ということについて、一度皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
 この地方は、先程も申し上げましたように、製紙の立地条件・自然条件に恵まれているわけではございません。当時としては、金生川の水だけでした。にもかかわらず、この不自然な条件を克服し、後進性を脱却して、今日見るような地場産業に発展したのは、私が思いますには、(難しい言葉で言えば)「経営者意識の近代化」と言えるのではないかと感じます。
 また、4年ほど前から毎年、紙の資料館で、青年会議所の若い者たちと一緒に、小学校5、6年生を対象に「紙の学校」を開いておりますが、私は開校式で、「この宇摩地区の紙がここまで発達したのは、天の時、地の利、人の和、の三拍子が揃ったからなんだよ。」ということを、子供たちに必ず申しております。
 先程も申しましたが、最初は、やはり金生川の清流、水があったということが、大きな理由になろうかと思います。その後、銅山川への分水の大事業が、製紙に大きな転換期を迎えたということも事実でございますが、最初は、金生川の清い流れが、紙の始まりの要因になったと思います。
 また、この地方は、阪神、中国、九州との海上交通が便利であったということが、大きな原因でありましょう。また、近隣の土佐、阿波には、和紙原料の生産が控えていたということも、大きく考えられるでしょう。
 そして、これはとても大事なことだと思います。土地の風俗が非常に純朴で、住民が勤勉であったということや、また、雇い主と職工の関係、今で言う主従関係が非常になごやかで、師弟両者の和がよかったということも言えると思います。
 むろん、この地に先覚者があったということは、言うまでもございません。そして、どちらかと言えば、川之江では一生懸命に紙を作り、三島では一生懸命に売るという形で、つまり生産と販売が独立していたことも、成功の理由の一つかも知れません。
 結論として、先程申し上げたような経営者意識の近代化、つまり単なるがめつさや功利主義だけではなく、企業意欲が、地場産業の発展などもろもろの条件を満たすための努力が、近代的、合理的、科学的に成長できた大きな原因ではなかろうかと思います。