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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

5 アマチュア研究者へのメッセージ


 このように平城貝塚という貝塚が、大昔の人々の生活を探究し研究する上でもって、非常に大切な資料を我々に提供してくれているのです。要するに貝塚から私たちは、いろんな多くのことを学ぶことができると思うわけです。それで、皆さん方に考古学に興味とか関心を持っていただければと思うのですけれども。
 今日お話をした2万年前から人が住んでいるというような、そういう旧石器時代の存在の発見は、実は群馬県で納豆売りをしていた青年が、日本の旧石器時代というものを証明をしたのです。いわゆる岩宿遺跡の発見は、本当にアマチュアの人が行ったわけです。木村先生なども小学校の時期から始められまして、四万十川流域で今盛んにお仕事をされています。
 私たちは考古学を難しい学問として考えるのではなくて、何か日常の生活の中でいろんな事に興味とか関心を持つということが、学問の発達にもつながるし、生活の発展にもつながっていくのではないかと思います。大分には「なしか」という言葉があります。なしかというのは「なぜなのか」ということです。「なしか」と。私は「なしかの心」という言い方をしてはどうかと思っているんですけれども、自分たちの身近なもの、すべてのことに対して、それはなしかというふうに、関心とか疑問を持つことから、地域学、愛媛学も広がるかと思います。一番の基本は、「大昔の人々がどういう生活をしていたんだろうか。」、あるいは「御荘町で貝塚の人たちはどういう生活をしていたんだろうか。」というような、いわゆる「なしか」という疑問や関心の気持ちを持つことが、考古学だったり、あるいは愛媛学に通じるのではないだろうかと思います。

長井
 僕の方でまとめというのではないんですが、もうわずかしか時間がございません。はじめに申しましたように、僕の話はまたということで僕は逃げさせていただいて、最後に総括的な御質問等がございましたら、出していただいたらと思うんですけれども、ございませんでしょうか。

会場
 疑問に思っていることなんですが、実は平城貝塚の発掘で、貝塚として人骨やあるいは貝殻がある所に、いわゆる木の実の貯蔵庫があるということが、どうしても分からない。現在の人間でしたらこんな貝塚の臭い所に貯蔵庫を作るわけがないのに、原始人は、こういう所に貯蔵し続けているということが、それは一体どういうことだろうか、お聞きしたいと思います。

長井
 発掘を担当しました本村先生がおいでになりますので。

木村
 今の御質問ですけれども。私が第4次の発掘調査をいたしました木村です。
 実は発掘調査をいたしました所は、貝塚と言っても、平城のあの全域に貝殻がそれほどたくさん堆積しているわけではございません。そして私たちが掘った部分はちょうど洪積段丘の一番高い所でございまして、いわゆる生活面であったのではないかと思われる所でした。そして掘ってみますと、地表面から2、30cmで火山灰と言いますか黄褐色の粘上層に達します。平城貝塚の縄文後期の地層というのは、15cmから20cmぐらいの非常に極めて浅い所にございまして、貝殻の堆積もほとんどなかったような状態でございます。貯蔵庫の出た所は住居地も出ておりますので、竪穴住居があって、そこで縄文人が暮らしながら、その少し離れた所に食糧貯蔵庫を造ったのではないか。ですから、貯蔵庫の上に、一般の貝塚と同じように、貝殻だけが深く堆積しているという状況では全くございません。あの部分は当時の生活面でして、分かりやすく言いますと、庭先のような状況の所ではなかったかと判断しております。貝殻も確かに出ております。それは当時の生活面というのは、貝は一度食べて、食べかすとなった貝殻は、一段下がった、こういう低い所に一括して捨てたのではないだろうか。小高い所から、斜面を帯びた一段低い所に貝殻がたくさん堆積されております。私たちが掘った所は先程言いましたように少し小高い所でして、当時の縄文人が建物を構えて生活をしていた、生活の場であった。そこに貯蔵庫が見付かったということになるわけです。以上ですが。

長井
 ありがとうございました。なお、今貯蔵庫と言われましたが、正式にはいわゆる貯蔵穴、穴です。どういうものかと言いますと、ここははっきりしておりませんが、普通は縄文時代の貯蔵穴といいますのは、地面に円形の直径1mぐらいの穴を1mぐらいの深さで掘り、中がちょっと広がって巾着(きんちゃく)形をしております。ここでもやっているのではないかと思いますが、さといもを貯蔵するとああいうふうになりますが、根菜であるとか、あるいは拾ってきたドングリであるとか、クルミであるとか、こういう物を穴に保管しておくのがいわゆる貯蔵穴というもので、おそらく集落の近くにあったのではないかということです。貯蔵庫と言いましたが、庫になりますと建物になりますから、ここではいわゆる穴のことです。
 あまり時間がなくなってしまったのですが。先程、橘先生が言われましたが、人骨の件につきまして、いわゆる平城貝塚の人というのは、顔が寸詰まりと言いますか、チンクシャで背の低い人です。これは実は弥生時代の愛媛県の人間にそのまま流れていきます。いわゆる原愛媛県人と言っていいのではないかと思いますが、これが北九州とか山口県あたりに行きますと、背の高い、1m65cmとか67cmとか。こういう人々が多いんですが、愛媛県の弥生人というのは1m55cmぐらい。だからチンクシャで非常に背の低いのは、ずっとつながって弥生時代の中ごろまでいくわけです。これは松山あたりで出ております、釈迦面山人によく特徴が出ています。この釈迦面山人が実は平城貝塚の人骨と共通点が多い。したがって平城貝塚人が現在の愛媛県人のルーツであると言ってもいいのではないかと思ったりもしております。
 時間がもう終わりました。最後に僕の方から、一つだけ皆さんに宿題を出しておきたいと思いますので、解答してもらうというよりちょっと考えていただきたいと思います。「貝塚というのは、食べたカスを捨てるゴミ捨て場です。なぜゴミ捨て場の貝の下に人を埋葬したか。」、一つ皆さん考えていただきたいと思います。11体の人骨、全て貝の下です。上に貝があるために、貝のカルシウム分が溶けて、人骨の中に流れ込んで、固定化しているわけです。だからミイラにするために貝を上に乗せたんじゃないかと思うんです。そうでないと腐ってしまうから。ですが、どうしてゴミ捨て場の下に、自分の先祖である人々、肉親である人々を埋葬したんだろうか。何か理由があるんだろうか。これは考古学とか何とかいうんじゃない。人間として、どうしてだろうか。一つ考えていただきたい。あまり考えられると、今晩寝られないかも分かりませんが。
 愛媛学・地域学と言うよりも、考古学の話に終始しましたが、冒頭で述べましたように、アマチュアの学問、研究を大切にする点で相通ずるということで、お許しください。長時間の御清聴、どうもありがとうございました。