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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

1 「肱川と最上川」風土の特性

芳我
 地元の肱川流域に住んでおります芳我と申します。よろしくお願いします。近年、全国各地で頭に地名をつけまして、○○学、例えば山形学・愛媛学とか、あるいは大洲学とか、こういった言い方が盛んに聞かれるようになりました。目的はいろいろなんですけれども、その背景には、いずれも「自分たちの住んでいる故郷の良さを再認識しよう」という共通の機運が、生じてきているように思います。愛媛県でも、県の生涯学習センターが愛媛学ということを盛んに提唱しておられますけれども、今日はその意義や必要性、生涯学習としての取り組み方などについて、また、先進県である山形学について、米地先生からお話を伺いたいと思います。さらに、愛媛学、中でも本日は大洲学、肱川流域学とでも言えるかもしれませんが、大洲周辺の特に「生活文化」を、そこに住む者の立場から考えてみたいと思います。これまで大洲の研究や勉強会というと、歴史的・学問的なものが多いんですが、今日は大洲の風土の土台になっている肱川に焦点を当て、米地先生の研究されている山形の最上川と対比させながら、考えてみたいと思います。
 まず最初に、「肱川と最上川の風土と特性」について、話をしてみたいと思います。ここでまず皆様に、この二つの流域の風土と特性を簡潔に理解していただくために、それぞれの川を象徴するようなものを2~3挙げていただいて、その後でその心は、というような説明をしていただきます。先にその例を私の方から申し上げます。まず、愛媛の風土について、これは、愛媛学の提唱者であります松友先生(愛媛県社会経済研究財団専務理事・元副知事)の説を御紹介するわけであります。それを簡単に申し上げますが、まず第一に瀬戸内海、第二に石鎚山、第三に峠、この三つを愛媛の特色として端的に象徴的に挙げておられます。その心はと言いますと、これがまた簡潔で要領よくできておりまして、まず第一に愛媛県は海岸線の長さが全国で5番目に長い。早く言えば東瀬戸内海の岡山の対岸から、ずっと南の豊後水道、宮崎の対岸まで、瀬戸内海の大半を独占した形である。つまり、古来より日本文明の大動脈である瀬戸内海において、愛媛が絶対的な優位を占めている。2番目の石鎚山ですが、中国・九州と比べても一番狭い四国にありながら、西日本で随一の高さがある。そして、その石鎚山系そのものが、北の方に偏ってデンとそびえている。それによって、うまく南方からのモンスーンによる風水害を防ぐが、半面ずいぶんとまた北の方に偏っているために、愛媛県の平野が大変狭いものになっている。第三は、県内各地域が峠に包まれており、ブロック化し、瀬戸内海にのみ出口が開いている。つまり、南予各地域の経済は、県都松山市のヒンターランド(後背地)とはならないで、全般的に立ち遅れており、直接海路により大阪や九州各地とつながってきたのは、そのためである。と、このように、非常に上手にまとめておられます。
 同じように肱川の風土を象徴すると、私の勝手な言い方ですが、第一に帆掛け船、第二に朝霧、第三にやはり峠、この三つで表現したいと思います。まず帆掛け船ということですが、かつては四国山脈の奥深く、帆掛け船が50km以上もその曲がりくねった峡谷を、重い荷物を積んでさかのぼっていたという、愛媛県では唯一のユニークな可航河川、つまり船の航行が経済の中心となる重要な川であったということです。青くよどんで水量豊かに流れるその風景は、人々の心に、また産業の隆盛に、まさしく母なる川の役割を果たしてきたと言えます。第二は朝霧。朝霧と洪水で名高い盆地風土を象徴します。テレビドラマの「おはなはん」「はなへんろ」でも紹介された、明治情緒の名残を漂わせるような、あの水郷の町、ひなびた城下町、伊予の小京都、そのしっとりとしたもの静けさが、朝霧によって象徴されます。第三の峠。これは流域全体の閉鎖性とブロック化を象徴します。特に、瀬戸内と宇和海から等距離を隔てた喜多郡・大洲地方は、これら両勢力の間にはさまって、長い戦国の時代を生き抜いてきた歴史がある。その長い年月の間に形作られてきた、固い仲間意識、排他的とも取られそうな地縁意識が、今なお心の底に流れているように思います。とまあ、そういう風に愛媛と大洲地方の風上をまとめてみました。それでは、米地先生から、できるだけ今のような条件で、どのように答えていただけますか、御期待をなさって下さい。

米地
 米地でございます。盛岡から参りました。盛岡は、小京都とこれまた言われる所で、川のある町で、今朝大洲の町を見せていただいて、ああ似てるなあという感じを持ちました。さて、私は今盛岡に住み、岩手の大学におりますが、山形県、四国の方から見れば、岩手も山形も同じように見えるかと思いますが、ちょうど愛媛と徳島みたいなもんで、ちょっと離れておりますが、まあまあ似たような、東北という点では共通しております。その山形の特徴を三つの言葉であげよ、最上川流域の特徴も三つの言葉で言うようにということでございます。本来ですと、最上川ですと雪とか米とか申すべきだと思いますが、今の先生のお話がおもしろいので、ちょっとひねりまして三つ挙げさしていただきます。第一には「月山」という山があります。大山と同じように2字だけの山で、皆さん御記憶の、御承知の方も多いかと思いますが、これを挙げたいと思います。二つ目には、山形というと皆さんすぐ思い出されるものに「さくらんぼ」がございます。非常に平凡ではございますが、山形の非常にユニークな特徴のある果物でございます。「みかん」以外は、いろんな果物が取れるところでございますけれども、いずれにしても、その「さくらんぼ」を挙げたいと思います。三つ目は、これは散々迷ったんですけれども、今朝おはなはん通りを歩いて、それならばということで、「おしん」を挙げたいと思います。おしんというのは、これはもちろんドラマのヒロインでありますけれども、おはなはんと並ぶ、朝のテレビ小説のヒロインの両横綱というような有名人でありますので、「おしん」を挙げたいと思います。その心はというのは、おいおいに話を申し上げることにします。

芳我
 どうもありがとうございました。「おしん」という人物を挙げられて、大洲の川船・朝霧とは、趣の違った精神構造という面からも、後ほど御説明いただけるようですが、それでは今度は、最上川流域の成り立ちを、改めて地形などの風土的な面から、御説明いただけませんでしょうか。

米地
 最上川流域の成り立ちを考えますと、ちょうどこの四国の山々とは違いまして、比較的新しい山が多いんです。中でもこの月山をはじめとする火山ですね。鳥海山とか月山とかあるいは皆さん御存じの山で言えば蔵王山とかですね。こういったような火山がございますが、この火山に先だってそのもっと前に海の底であった時期がございまして、海の底から段々持ち上がって山脈ができてくる。そうすると、そのところを最上川が流れるといったように、海から陸へと変化していったところだということになります。この海から陸へ変化をしていく時に、もう一つの特徴、これは芳我先生から肱川についても同じようなお話があるはずでございますけれども、一番真中に奥羽山脈がございまして、そこから東西に川が流れるんですけれども、川が流れているところに山が盛り上がってくるわけですから、毎日毎日剃(そ)っていますと髭(ひげ)自体は伸びているのにだれも気がつかないように、川は山が持ち上がってくる中をどんどんどんどん削っておりますから、結果的には肱川と同じように山と山の間を川が流れるようになってきます。こういうふうにして、峡谷を作ったというところが最上川の特徴でございます。もう一つだけ述べさしていただければ、先程申しましたように雪が降るところでございますから、そういう気候的な影響を受けて、雪解け水を集めて川が流れるというのが、四国の川とちょっと違うところだと思います。

芳我
 山形の最上川、秋田の雄物川などは、お話のように、下流の方で西方の山を横切って日本海に注いでいる。それで短くちょん切られた山地の方を、昔は「出羽丘陵」と習っていたように思いますが、今でもそのように…。

米地
 今は、呼び名を少し変えて出羽山地と呼んでおります。その出羽山地と東の奥羽山脈との間に、この大洲のように盆地がございますが、ちょうどそれが南北に団子のように串刺しになったみたいに並んでおりまして、それが米沢盆地・山形盆地・新庄盆地で、それらを串刺しにしているのが最上川であるということになります。

芳我
 東北には山脈が三つあって、最上川はその中の盆地を、いくつも串刺しにしながら北に流れたが、下流の方では、次第に高まってくる新しい出羽山地を切り下げながら日本海に流れた。いわゆる先行性河川である。と、こういうことでありますから、その意味で、肱川と良く似ていますね。ジリジリと持ち上がってくる下流の山地を、古くからの肱川が掘り下げて河口に巨大な峡谷をつくったのと、まず大きな共通性があります。
 それではここで、「肱川の風上を構成する地形の成り立ち」を押さえておきたいと思います。まず、プレートテクトニクスとマントル対流。地球規模の話になりますが、四国の山だけはこれと直接つながってまいりますので、しばらく御勘弁ください。このプレートテクトニクス理論というのは、地球全体が厚さ100kmぐらいの硬い板状のプレート、具体的に言えば、大小十数個に割れた陸性の岩盤と、海性の岩盤とで表面が卵の殻のように覆われておりまして、それが地下のマントル対流運動によって押されて、ベルトコンベアのように動かされているという学説でございます。コンベアの流れというのが1年間にせいぜい数cmですから、ずいぶんとまどろっこしい話ですが、早送りでもしますと動いているのがわかる。ただ人間の考える尺度が、あまりにも短いというだけでございます。そこで、問題はこの巨大な岩盤が動くのですから、割れ目にあたる部分に大変な変動が起こるわけです。その変動には三つのタイプがありまして、一つは海の中で割れ目が開き、新しい岩盤が次々に送り出されてくるところ。二つ目は、この岩盤どうしがすれ違うところで、大規模な横ずれ断層が起きること、三つ目は、陸性の岩盤と海性の岩盤がぶつかって、陸性の下に重い海性の岩盤がもぐり込んでいくところ。この三つ目のもぐり込む場所として世界一有名なところが、日本列島近海でございます。太平洋プレート・フィリピン海プレート、これは海性の岩盤でございます。ユーラシアプレート・北米プレート、これは陸性の岩盤であります。で、実は四国山地というのは、紀伊山地などとともに、このフィリピン海プレートと密接な関係にございます。
 ここで四国山地の帯状構造の説明に入りますが、陸性のプレートは大陸を載せているが、海性のプレートもよく洋上の小島を載せて運びます。一番新しく運ばれてきて日本列島にくっついたのが、伊豆半島でございます。四国山地も、このフィリピン海プレートによって運ばれてきた、このような陸性の小島が、比重が軽くて地下にもぐり込めないで、だんだんとカスが溜ったようにそこに取り残されて、長い間に帯状地層の山地になっていったわけであります。ただこの地層は固いところと軟らかいところがございまして、それがまた差別侵食をされ、独自の動きもしたり、やがてそういうことで、東西方向の山地・谷間の筋が無数にできまして、洗濯板みたいになったわけです。そうなったものが、第三紀末以来の波状運動によりまして、それでゴーと落ちたところが、紀伊水道、土佐湾、豊後水道といったところになりました。宇和海のリアス式海岸が、それらとほとんど同時期で同質であるというのは、そういうことによります。この場合、波のうねりの背中は大まかな南北方向の山系になります。たるんだ谷の方も南北に現われます。こうして東西と南北の両方の造山運動が重なり合って、肱川流域などを形作っていくわけですが、その地殻運動を大きく拡大してみたものが、「肱川流域切峯面図」であります。これは小さな侵食谷を全部埋めて、地盤の動きのみを強調した地図であります。これを御覧いただきますと、大洲と長浜のあいだの三波川帯の地層が、ちょうど板を傾けたような形になっていることが、おわかりいただけるかと思います。四国山地が全体に南に傾いておって、帯状の各地層がまた勝手に南に傾いているという状態で、それによってちょうど瓦屋根のようになっておりまして、これを覆瓦(ふくが)構造と言っております。
 ところで、先ほどの南北方向のうねりですが、最大のものは高縄半島から南方足摺岬方向の幡多半島まで大まかに続いておりまして、この中には石鎚山も大川嶺も高研山も含まれております。この最大のうねりから西へ落ちる傾きがずーっと豊後水道まで続くのですが、途中で野村と宇和との間に、大野山・大判山等の800m近い山があります。つまり、途中でもう一度2次的な隆起軸がある。これは南の鬼が城山の方までつながっておりまして、火成岩の突き上げでできた南北系の山系であります。この二次的な隆起軸のために、宇和盆地の西部、岩木地区あたりは上流(西)側に傾く二重の逆傾斜を受けています。その中央は、深(ふけ)川という宇和川の支流で、底なしの粘度層が厚く溜っておりますが、もしこの土をきれいに取り除いてしもうたら、下流の永長あたりよりも何mか低い岩盤が出てくるはずでございます。その証拠に、今でも集中豪雨がきますと、JR岩木駅の回りが高松城の水攻めのような直径1km半ぐらいの泥海になってしまい、まあ2、3日は水が引かんことになります。
 このように上流側に傾く2重の逆傾斜運動は、さきほど切峯面図で見ていただいたように、大洲と長浜のあいだの出石(いずし)山脈でもっと顕著に働いています。現在大洲盆地を埋めている土砂の厚さは、電探調査なので細かいところまではわかりませんが、深いところで約30mあります。今の平野面が海抜10mくらいですから、岩盤の深さは海面下20mほどになります。つまり、大洲の盆地は四国で最も低い東西方向の陥没地帯ですから、もしこの土を全部のけてしまうと、長浜から海水が入ってきて、今の平野面より10m低い、細長い湖になってしまうというわけでございます。
 そのようなことで、肱川の流域は全体として南と西に傾くが、流域内の起伏によって、所々そのような二重の逆傾斜が働いているということであります。大昔の肱川にはアメリカの大平原のような時期がありまして、そのような所を自由に曲流しておった川です。その曲流形態は、流域全体が隆起し、傾いていく過程で、河道を固定化され、そのままの姿で山の中にはめこまれていったわけです。そういう状態を「穿入(せんにゅう)蛇行」といいます。高知県側を南流する四万十川もそのような川であります。しかし、肱川の方は四国山地の大きな傾きに逆らって河底を掘り続け、今もますますゆるやかになって北流を続ける、高峻な四国山地では唯一のまことに珍しい川で、このユニークさが肱川の最大の個性であります。
 以上、本日はあくまで「肱川の風土」とその理解が大事でありますので、まずこのように流域全体の地形的特性を押さえさせていただきました。それでは、先生のさっきのお話に戻りますが、最上川流域の地図をもとにして、各盆地の「個性と共通性」についていかがでしょうか。

米地
 今、地形について芳我先生の自分の御研究の成果を詳しくお話いただいたんですが、こういう土地の成り立ちの話というのは皆さんにとっては、初めて聞いたとか難しいとか思われるかもしれません。しかし、私どもが生きていくうえに、とても大事なことなんです。我々はどんな土地の上に生きているのか、例えば水害があったりする、それは先程のような盆地の地形、そういうものと関係があります。それから地震がありますと、先生が先程おっしゃったようなプレートですね。この前の北海道南西沖地震で、奥尻島に大きな被害が出ました。以前は日本海側にはあまり地震が無いと言われていたんですが、最近になってそこにはプレートつまり板ですが、その割れ目があって、北米プレートとユーラシアプレートの境目だから地震が起きたんだという話が、新聞やテレビなんかにも出ましたから、御存じかと思います。そういう風に、私どもが生きていく上で土地の成り立ちというのは、大変重要なのです。
 この山形学というのも、山形の土地の形というのも重要な一部分なんですが、今のお話と関連させて簡単に特徴だけ申しますと、最上川の流域には、大きく言って一番南に米沢盆地が、それから途中に山形盆地があり、それからその下流に新庄盆地というこの三つがございますが、この盆地、それぞれ性格がやはり違うんですね。
 米沢盆地というのは、割に平らな盆地でございます。みなさん御存じの上杉鷹山という名君がおられまして、米沢盆地を豊かにするためにということで、織物なんかを奨励するわけです。ここはほぼ平らな盆地でございます。
 隣の山形盆地、これも平らなんですけれども、ここで特徴的なのは、扇状地という、回りの山から流してきた石ころでできた、少し傾斜のある土地です。そういう扇状地が、さくらんぼをはじめとした、ぶどう・桃・洋梨などの、山形の果物栽培の中心になっております。
 それに対して北の方の新庄盆地というのは、芳我先生のお話にもありましたような段丘がありまして、階段みたいになっているんですね。そうすると、川から水が上げにくいので、水田にすることが困難ですから、土地利用が遅れておりまして、そのために新庄盆地というのは比較的貧しかったのです、例えば杉とか昔は馬とかそういうものに頼っていた時期もある。同じ最上川の流域にありながら、地形が変わる、それによって気候が変わることにより、違いや影響が出ております。
 ですから、地域学というのは、それぞれの土地の微妙な違いというのを読み取っていくということになります。そういう時に、研究者とか学者も、調べることは調べるんですけれども、もっと大切なのは土地に住んでおられる方々の感覚ですね。あの高いところは一段高いもんだから、ここは水を引くのが大変だとか、ここんところは砂利だから水がどんどんもっているとかですね。こういうそれぞれの土地の人の持っている情報、そういうものを積み上げていく、そういうところから地域学というのはでてくると思うんです。地形の話を聞かれても、「芳我先生のような偉い先生が言われたことだから、学問的には意味があるんだろうが、我々の生活には関係なさそうな、難しい話だったなあ。」と思われるかもしれません。でも、そうではない。このことは、皆さん御自身の生活と密接につながっております。

芳我
 「流域内の個別性と共通性」ということで、今度は肱川の場合ですが、比較的狭い肱川流域内の各盆地の風土を対比するとなると、気候の差などよりも、やはり肱川が造った新旧の河成地形とその上の生活ぶりを比べることになりますね。河成地形の上限としては、隆起量の大きい支流小田川の上流を別にすれば、全域がほぼ250~300mまでに一定しておりまして、その高さはおもしろいことに、上流宇和盆地の平野面より、むしろ下流、大洲~長浜両岸の古い丘陵地(昔の赤茶けた河床轢がのっている)の方が高くなっております。
 それでは、まず上流の盆地から見ていきます。宇和盆地は海抜220mぐらい。山地の下がすぐに沖積平野でありますから、「皆田式盆地」と言って、そのほとんど全部が田んぼです。農家の耕地も水田が9、畑が1の割合で、昔からの米所であります。もちろん最近は果樹だとか園芸作物だとかありますが、米の割合が依然として群を抜いております。
 これが、野村にいきますと、急に川底が低いところにあって、両岸の地形は見事な段丘地形になります。耕地としては畑が中心で、今でも農家収入の46%が酪農であります。
 ところが、さらに下流の内子盆地に行きますと、その若い段丘面はせいぜい旧内子町の町並みくらい。山地の次には例の洪績轢をのせた丘陵地が多くなります。これは非常に土木的な作業がしやすく土地も粘着性が強いので、最近はゴルフ場や広域パイロット事業など、この丘陵面開発が進み、たばこや椎茸、その他ぶどう・桃・梨等を作って観光農園として売り出しております。
 最後に大洲盆地を見てみますと、広い丘陵地のほか、一番下の沖積平野が半分は自然堤防上の畑、半分は後背湿地の水田に分かれておりまして、昔は洪水のたびに肥沃なタル土が補充されました。現在の畑には若宮沖のような野菜園芸が盛んですが、戦前は桑畑が広く、湿地の方には水稲・レンコンのほか柳ゴオリ用の杞柳などが作られておりました。と、まあ、このように同じ肱川流域でありながら、各盆地によって地形条件の対照性がみられ、それによってまた、産業や暮らしぶりも明らかに違っております。

米地
 最上川の場合に、どうかということになりますと、私はここに来て、こちらはやはり明るくて暖かくてといいますか、東北とはずいぶん違うなあと思っております。東北は今年は冷害でしたけれども、通常は暑いですし、そうでなければ米ができないのですが。特徴的なのはやはり冬の雪であろうと思いますね。冬の雪というのは、最上川の下流を上って来るんです。北西のシベリアから風が吹いて来るんですね。シベリアで吹いている風はからからに乾いておるんですが、それが日本海を通りますと、暖流の対馬海流、要するに暖かい海の水の上をシベリアの乾いた風が通る時に、たっぷりと風が湿気を吸い込むんです。困ったことに、その最上川の下流というのは西を向いております。肱川は北に流れておりますけれども、最上川は山の間を縫って西へ抜けるわけです。その西に抜ける川をさかのぼって、湿った風が吹き込むんですね。そのために突き当たりの新庄盆地とか尾花沢盆地とかは、豪雪地帯として知られるところになっているんです。
 その雪と向い合うというのが最上川の暮らしで、その雪と向い合う時に、盆地のどちら側が空いているか、要するに西が空いている所では、西側から雪を含んだ風が入って来るから、そういう盆地は雪が多くなる。そういうことに、暮らしが微妙にからんでまいります。例えば皆さんが山形の祭で御存じなのは、花笠音頭という歌に会わせた踊りのパレードでしょう。この歌の出だしが、「花の山形、紅葉の天童、雪で名高い尾花沢」というんですね。この尾花沢盆地は、ちょうど最上川に沿って入ってきた西の風が突き当たるところにございます。大きさで言うと大洲の盆地とほぼ同じくらいでしょうか。これが、もうとんでもない雪になります。学生時代の話ですが、実はその尾花沢を卒業論文に選びましたが、私怠け者ですから、写真を撮ってなかったんですね。冬あわてて卒業論文に間にあわせるために写真を撮りましたら、「お前は怠け者だということは、この写真を見ればわかる。こんな雪のある時に撮らないで、もっと早くとるもんだ。」と先輩に怒られたものです。

芳我
 米地先生に対しては、大洲の風土のおもしろさいうたら、ここの霧とか、長浜のあらしとか、洪水のものすごさなどをお話したらいいんですが、その話では大洲の聴衆の皆さんが少しも驚いてくれませんので、これはまた、地元の方にしか分からない市内の地名が出てくると思いますが、その話をしたらと思います。今の大洲市内には、合併前の旧村が10か町村ほどありますけれども、その中でも、昔の大洲村、旧大洲町とか、菅田村、五郎村、三善村とか言う肱川本流筋の旧町村に対して、ちょっと支流筋の方に入り込んだ昔の大川村、南久米村、平野村、上須戒村などは、農業などの舞台となる地形風土がぜんぜん違うのですね。海抜100~200mほどの丘陵地の上には、先ほど述べた半固結状態の赤茶けた河床礫が、所によっては30mから50m堆積しております。そういう所は、昔から水はないし、土は硬く、瘠せて悪いし、これは最近のゴルフ場や広域パイロット開発事業の対象になるまで、とかくカヤとかシダ類などの下草しかはえてない松木林として、半ば放置されてきたような地形であります。最近は、農業用水をポンプで汲(く)み上げたり、化学肥料をどんどん投入して、葉タバコやブドウ畑などの造成団地が普及しはじめておりますが、戦前の中心的な収入であった養蚕業のころには、粘っこい赤土の桑畑を掘り割って、毎年毎年厩肥をいれ、大変な苦労がありました。それでも桑の木の伸びが悪く、桑の葉の収量は菅田沖、若宮沖の半分にも足らないのです。逆に言えば、菅田や若宮、また五郎や三善あたりでは、洪水を避けた両岸の養蚕農家に、大きな2階建ての養蚕室が建ち並び、一戸当たり何百グラムという量の蚕をはいて、繭に仕上がる前の10日あまりは、内子町の旧大瀬村などの山村部の娘さんが、大勢雇われてきておりました。このことは、もともと肱川本流筋の桑畑に、毎年のように洪水があって、その度に肥沃なタル土を補給してくれていた、そのおかげなのであります。と、いうようなことでありまして、水がなくて苦労した丘陵の上の村々も、水が多すぎて悩まされた本流筋の村々も、同じ現在の大洲市内なのでありますが、地形風土という入れ物の違いから、このように対照的な産業や生活ぶりが見られるわけでございます。