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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

1 四国の先駆的都市、今治

 今治を特徴づけるものを並べてみるが、お国自慢をしようというのではなく、これらに共通する点から、「今治らしさ」が表現できるのではないかと考えた。

(1)日本一位:タオル工業、内航海運

 昨年度のタオルの全国生産高は約1,350億円ぐらい、そのうちの60%、だいたい800億円程度が今治市・越智郡で生産をされており、第1位である。
 また、海運のうち内航海運について見てみると、全国の船の数は隻数で約9,200隻、船腹量で385万トンであるが、このうち愛媛県が、隻数で約1,000隻(11%)、船腹量で約54万トン(14%)を占め、日本の第1位である(昨年度末の調査による)。外航の船舶も愛媛県でたくさん登録されており、内航・外航合わせると、愛媛県は東京都に次ぐ全国屈指の船腹供給県である。中でも、今治市・越智郡が愛媛県の70%を占めており、海運に関しては、今治市・越智郡がリーダーシップを握っていると言える。

(2)日本で初めて:椀船と割賦販売

 日本で初めてもいろいろあるが、一つだけ挙げると椀船と割賦販売。これは極めて大胆・積極的な商売のやり方で、船を使って日本国中を回り、よそ者が割り込んで行って商売をする代わりに、「お金はあとでいいよ。」ということで分割して回収した。今もこの名残か、全国どこへ行っても今治出身の割賦屋さんがいる。

(3)四国で初めて:貿易港、キリスト教会、ロータリークラブ

 四国で初めてというのもいろいろあるが、主だったものを挙げる。
 まず、税関がある貿易港・開港場になったこと。かつて、瀬戸内海は大阪と九州を結ぶ東西の航路として重要で、その中央に位置する今治の港は、本土と四国を結ぶ今治尾道連絡船があり、南北航路のターミナル、瀬戸内海で最大の交差点であった。加えて、神戸で通関後今治へ運ばれていた輸入綿花の量が、タオル産業の発達により増えたため、今治へ税関の分室を持って行こうということで、大正11年に開港場になった。
 次に、キリスト教会。キリスト教に対する違和感や抵抗は、明治6年に禁止が解けた後も全国的に強かった。まず松山で布教しようと、明治9年にアッキンソン宣教師が来て、三津ケ浜で話をしたが、反対派が暴れてなかなか思うようにならない。あきらめて帰ろうとしたところ、今治の増田さんが「今治へおいでなさい、話を聞こう。」ということで今治で布教の会を持ち、信者がたくさんできた。それで、明治12年に四国で初めての教会が風早町1丁目にできた。
 ロータリークラブは、東京、大阪、神戸、名古屋といった大都市にでき、「四国に全くないから、13番目を四国へ持って行こう。」ということで、松山へ持っていったが不首尾に終わり、次に大阪のロータリークラブが住友の縁故ということで新居浜へ持っていったが、これも不首尾に終わった。今治へという話が出たが、当時人口が5万そこそこの田舎町で、「あんな所でね。」と思われたが、一声かけたらたちまち、昭和9年に、四国で初めて、全国で13番目に設立された。

(4)愛媛で初めて:空港、種痘

 空港と言ってもこれは飛行場ではなく、大正12年に大阪の堺から高松・今治と結ぶ水上飛行機の定期空路ができ、片原町の海上から発着した。初めは、新聞、郵便、写真のネガなど、小さな急ぐ荷物を運んでいた。この飛行機には「日本で初めて」が絡んでいる。昭和3年、大阪・船場あたりの金持ち、芦屋あたりの旦那衆が「うまいものと言えば来島海峡の魚。でも、遠いから生きたやつは食えない。」「いや、方法があるんだ。」ということで、魚を生きたまま今治から飛行機で大阪に運び、料理屋に出したところ、「こんなうまいのがあったのか。」と評判になった。人間さえ乗せないで、よたよたと飛んでいる時に、生きた魚が空を飛んだのは、日本初めてであろう(それほどの手間とお金を掛けても値打ちがあるくらい今治の魚はおいしかった、ということである)。同じく昭和3年7月、乗客を運ぶようになると早速、日本で初めて飛行機に乗る新婚旅行をやった。記録によれば、大分まで延長になった飛行機に乗って、今治から別府へ2日間の新婚旅行に飛んだ。
 もう一つ、疱瘡(ほうそう)(種痘)をやったのも今治から。嘉永2年(1849年)、明治以前であるが、今治の藩医菅周庵(かんしゅうあん)という医者が、長崎で勉強し、実験を重ねて、ついに愛媛で初めて種痘に成功したという記録もある。