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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

5 ともに生きている「海」を見直す

渡辺
 それもそうなんですけれども、ちょっと申し上げたいのは、先程、対岸の忠海の『客船帳』のお話をしましたが、今治もそうで、愛媛県全体がそうなんですけれども、瀬戸内海に面している、海と共に生きてきたということです。
 これはぜひ、頭においていただきたい。海を共有している。これは伊予だけではなくて、対岸の安芸の国にしろ、どこの国にしろ、瀬戸内に面している所は海を共有している。それだけに、海を通してのつながりというのは、縄文時代から、瀬戸内海ができたころからあるわけなんです。そんなことで、この地域の研究をする場合も、この地域の資料に限定せずに、一つ幅広く瀬戸内海を通して、関連のあった地域のことからも見ていただきたい。そういう意味で、先程『客船帳』の例も挙げたわけです。
 あるいは、瀬戸内の島嶼部というのは、海を通していろいろな情報伝達の非常に早い所であります。大三島の上浦町の井口に藤井さんという家がありまして、そこに『藤井此蔵一生記』という、幕末から明治初年にかけて生きた人の日記が残っております。この地域の研究をするうえで非常に貴重な資料です。
 たとえば文久3年の1月の日記に、次のような今治のことが出ております。「異国船今治沖へ停泊いたし候て、城下は大騒動いたし候由。」外国船が今治沖へ泊まったので、大騒動になっている。「その後、にわかに御台場4ヶ所御築きこれあり。」それで異国船向けの大砲を大急ぎで4ヶ所、すなわち蒼社川の裾と城の下(しも)の浜、天保山の脇、それから浅川脇と4ヶ所作ったわけです。「その他、軍用などこれあり、大物入りにつき、今治札下落に及び候。」この今治の藩札は寛政年間に発行されたものですが、藩札の問題とか。あるいは江戸で大火があって、それは今治の藩の屋敷が元だとか。あるいは今治の藩主、この時は10代の定法(ただのり)ですが、非常に武芸が達者だとか。そんなことが書かれている『藤井此蔵一生記』などというのは、非常に貴重な資料になるわけです。
 それと、先程、地方史のことを申しましたが、島田次郎さんの紹介(「地方史研究」242号)によりますと、イギリスでは、地方史というものを非常に大切にするわけで、その地方史の指導者に、サークスさんという女性の方がおられ、私も数年前に広島でお会いしたことがあります。
 その人が、イギリスの全ての大学は、その地域の町や村において、一般の関心を喚起するような学問的な科目について、学習コースを開設することを義務付けられているということで、各地の大学で運営されている大学公開講座制度があり、その地方史公開講座は、70年近くの歴史を持っているといいます。日本の場合は、えてしていわゆる専門の研究者と地方史の研究者との間がぎくしゃくするようなことがありますけれども、イギリスでは、それが全く無い。共同して研究を進めているとのことです。
 もうちょっと時間がありませんけれども。それぞれの地域の人が、歴史の荒波に洗われながら、どういうふうにして生きていくかということについて触れてみたいと思います。たとえば先程の御手洗の話、御手洗のある大崎下島は、隣の豊島、斎島とも中世までは伊予の国だったわけです。その御手洗は、遊廓を盛んにして、もちろんこれは必要悪なんでしょうけれども、船をそこへ引きつける。大阪の歌舞伎を呼んだり、あるいは富クジ(今で言うと宝クジですか)を開いたり、あるいは船市を開いてみたり、ともかく、他国船に依存しなければ生きていけない地域だけに、他国船を誘致するためのいろいろな努力をしている。
 その最大のものが、文政11年に大変な大工事ですが、大きな波止場を造りました。波止は南風を防ぐので、たくさんの船が入港してきます。また、立派な桟橋も造るという努力をしてきました。ところが、明治以降になると帆船がなくなり、みな機帆船、汽船になってしまった。そうすると必然的に風待ち、潮待ちの港が衰えていくわけですけれども、御手洗は江戸時代にきちんと港を整備していたために、第一次大戦で北九州から大阪へ大量の石炭が運ばれた時の中継港として、また御手洗は栄えております。それで今日、御手洗がどう生きていくかということは、やはり古いものを残し、文化財を遺産ではなく資産として、生きようとしているのではないかと思います。
 最後に申したいのは、瀬戸内海は世界に誇れる内海であるだけに、昭和9年ですか日本で初めて国立公園になりましたが、一つは環境の保全です。汚染が始まったのは、重工業が盛んになった時で、そのため随分汚染されたので瀬戸内法と言われている環境法ができて、汚染の進行がだいぶん止まったんですけれども。もう一つは、景観保全の問題です。瀬戸内海の景観を保つということ、これが非常に重要なことで、最近各県で力を入れ始めております。たとえば来島海峡、ここを通る時には景色に見ほれますし、また広島から帰って来る時に御手洗を過ぎますと、こちらに近見山、それから唐子山、それから遠く世田山、さらに遠く石鎚が見えて「ああ郷里に帰ったな。」という感じを受けるわけです。
 そういう景観を守っていくということのためには、その地域の背後にある歴史を十分踏まえることが重要になってくると思うんです。たとえば来島海峡に中渡島という灯台がありますけれども、ただ単なる景色が美しい島として見るのではなく、中渡島が中世末期の瀬戸内の戦いの中心になって、いわゆる海賊、水軍の大きな拠点であり、そこでどのように戦いがなされたか。今は小さな島で知らない人は全然関心を持たないですけれども、どれだけ日本列島史の上で大きな役割を果たしたか。全然何も知らずに眺めるのとは違いますし、またそういうことを知っていれば、保存にも力を入れることができます。また、山城に関してですが、この今治藩ですと、吹揚城(=海岸平城)があって、江戸時代には今治藩領3万5千石を支配していた拠点であったことはよく御存じだと思いますが、それより前の中世に、今治地域だけで22ヶ所、周辺の越智郡陸地部も含めまして100ヶ所余りの、ものすごい山城が確認されています。島嶼部にいたっては、越智郡に137ヶ所。これは『愛媛県中世城館史』という、教育委員会が昭和62年に出したものに載っているわけですけれども。ああいう中世の山城は、一体どういう役割を果たしたのか。今治藩主みたいな大きな存在ではないわけです。山城もおそらく、掘っ建て小屋に毛のはえたようなものだったのだろうと思うわけですけれども。そういう山城が、その周辺に住む農民とどういう関係にあったか。いざ悪党などが来た場合にはそこに農民も一緒に逃げ込むとか、そこの城主といっても大したことではないんでしょうが、それと運命共同体的な関係にあったとか。一体山城とはどういう存在であったのかということももっと明らかにすれば、今日、今治周辺や島嶼部に残っている山城を見る場合も、気持ちが変わってきます。
 そういう意味で、ぜひ瀬戸内海の環境もそうですけれども、景観の保全に努めていただきたいと思います。同時に、子供さんたち、今は学校にたくさんプールができておりますけれども、プールで泳ぐのではなくて、本当に素晴らしい海を持っているわけですから、海に親しみ、海を恐れないようにしてほしいと思います。そして、たぶん長い歴史の間に、瀬戸内海というのが我々の生活に非常に大きな恩恵を与えてきた、そういう海をもう一回見直すためにも、海に親しんでもらいたいと思います。
 何か演説調になってしまいましたけれども、私は、最後にそういう点を希望しておきたいと思います。どうも失礼しました。

村上
 まだ語り尽きない部分がございますけれども、予定の時間も少し超過したようでございますので。語り残した問題につきましては、後ほど4人の先生方から、十分承りたいと思います。これまでの御清聴どうもありがとうございました。