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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

4 祭りを支える地域の基盤

佐藤
 祭りを支える社会組織というか、今ずっと、祭りが変わってきたというお話の中で、地方社会とか地方文化とかそういうものが、祭りを研究することによって明らかになるし、それで解明できない部分もあるというお話だったんですけども。それは、祭りそのものを支えるものということについて、松本さんから詳しいことをお聞きしたいと思うんですが。

松本
 そうですねえ。私は、半ばアマチュアであると申しておりますし、そのことには変わりございません。祭りの研究というのは、今まで3、40分話題にしました事柄が中心の伝統行事のスタイルかと思います。皆さんが興味をお持ちになられる事柄の大きな点であろうかと思います。でも、形を、ものの見方を、やはり私たちは常に変えようと思います。一つのものの見方から全然関係ないようなものの見方へあえて移し変えて、そのものを見ようとします。そういう意味で、祭りとは少しずれるかもしれない、祭りを支える組織というものを考えて見たい。
 私たちは、自分の身の回りに、自治会というものを持っております。ある場合には、それは町内会というような言葉でも表されますし、さらに別な名前で言い表されることもあろうかと思います。
 町内会のそのことに携わっている人たちに対しては、非常に申し訳ないですけれども、一面、煩わしいことがあります。私は今、町内会長ですから、そのことを身をもって感じます。しかし、この町内会とか自治会というものが、日本の社会の中で、どういう位置を持つんだろうかといいますと、地方自治体が全部で3,200いくらありますけれども、ほとんどすべての自治体の中にこの組織があります。そういう自治会とか町内会を持たないのはわずか7つくらいの団体なんです。あとの99%の団体はすべてこういう組織を持っております。これは、自由参加の団体ですので、強制力があるわけではありません。法的ないしは規制上の強制力かおるわけではありません。個人加入という形をとっておりますが、実質は世帯参加になっております。
 この組織を他の国々と比較しますと、おそらくこれは世界の中で日本特有のものであろうと思います。お隣の韓国とか、中国とか、あるいはヨーロッパ・アメリカなどの例を参考にしましても、こういう組織は見つかりません。
 この組織がいろんな機能を果たしております。そのために、煩わしいということになるんですけれども。お互いに町内の人たちの親睦をし合うような、そういう働きもします。あるいは、ときおり火事、防犯、年末の見回り等々のさまざまな形で、その自治会で生活している人々を共同で守るというようなこともあります。自治会にある道路、排水路、あるいはさまざまな環境を守るという働きもしております。それからまた、行政に委託された形のさまざまなものを果たしていくという働きもあります。
 こういうふうにたくさんの働きを託された町内会・自治会が一つの働きとして、祭りを行う、祭りを担うということだろうと思います。すべての人が祭りに参加するとは言えませんけれども、それは、大きな支える基盤になっている、こういうように考えていきますと、自治会と祭りというものとのつながりはどうなっているんだろうかと思うんですね。恐縮ながら、『新居浜太鼓台』のお仕事、御研究にはこの部分が十分とは見られませんでした。
 たとえば、皆さんよくテレビで御覧になったり、直接御覧になる京都の祇園祭なんですが、祇園祭そのものができたのは、どうも1,100年ほど前のこと。気の遠くなる話で、そして途中大きな戦乱がありましたので中断しましたけれども、中断したあと再開されまして今日まで続いておりますのが約500年、祇園の祭りは、日本の祭りのあるいは原型であるというふうに言われております。大きな鉾(ほこ)、薙刀(なぎなた)鉾、あるいは菊水鉾、という大きな太刀を立てて、悪霊を払うということになろうかと思いますが、それは、車で引いて町中を、氏子の中を、悪霊払いをするわけですが、それと同時に、山があります。山は、これは、いろいろな飾りものを作って、飾りものを町内の人たちがかついで練り歩くというようなことになろうかと思います。これは、御輿のいわば巡行に伴う一つの神へのサービス、そして同時に悪霊退治ということになるんですが、この祇園祭の中で、その一つの鉾を、一つの山を支えるのが町内です。新居浜などと違いまして、現在ではその山や鉾を支えるのはせいぜい筋、小さいところでは3軒、都心部から人々が郊外へ流出しますので、それを支える人たちがいない、わずかに3軒、3軒の人たちが、学生アルバイトを雇いまして、そしてその山をかつぐ。さらに、いくらか大きいところでも数十軒、薙刀鉾でも数十軒、数十軒の町内が支えている。そして、実際に引くのは京都市内の学生たちである。こういうふうにですねえ、その町内が何百年にわたってそれを支えた、そういうような町内とは、元の都市の中でどういうものであったのかということになります。まあ、江戸時代のことはよくわかりませんけれども、江戸時代からその町内が祇園の祭りの鉾・山を支えていたということには間違いありません。
 そのいわば、あとに作り出されたのが、京都は日本で一番早いものですけれども、町内会が作り出されました。明治の中ごろに、町内会が作り出され、それが一時、戦後廃止になりましたけれども、またすぐに再開されまして、今日にまで至ります。
 町内には町内の小さなお宮さんがあります。町内のお宮さんの祭りであり、同時に祇園、八坂神社の祭りでもあります。つまり、お祭りが身近なところの祭りと大きいところの祭りが重なっております。
 こういう町内会は、明治の終わりころから大正にかけまして、東京都とか名古屋に新しくできるというふうになりましたけれども、ま、基本は祭りを作り出した原型の京都では、そういう町内、ないしは町内会が、それを支える基盤であった。そして、今言ったように町内には小さなお宮さんがある。それから同時に町内には今、自治会館とここらではおっしゃるだろうけれども、町の家があります。町の家に、鉾を、あるいは山を納め、町の中のさまざまな共有のものをそこに納め、そして、町内の人たちが、さまざまな演芸行事や相談ごとなどに寄り集まります。そんなこともずっと続いてきました。
 実は、私が申し上げたいのは、そういう人々の町民の生活のいわばつながりの中から、祭りというものが作られ維持され、そしてそれを次の世代につなごうとしている、そういうことであります。

佐藤
 今お話うかがったら、軒数がものすごく少ないんですねえ。あれ、やっぱり都市化して、ビルなんかができて、大きなビルが立つと住民が住めなくなるということでしょうか。

松本
 そうですねえ、都心部の中では相続税の問題がありましたり、あるいは大きなビルができますからその間に挟まったうちはさらに都心部から流出していくということで、そういう傾向が非常に多くなってきておりますので、祇園祭を支えたかつての町内というのは、今は大きな変わり方をしている、そんなことになりましょうかね。

佐藤
 で、学生のアルバイトなんかが……。

松本
 そうですね、だいたい学生諸君がのべ数千人って言ったんでしょうか、正確な数は今わかりませんが、鉾を引き、山をかつぐために京都の大学生、運動部の学生を総動員しまして、それで綱を引き、かついでまわる、そんなようなことですね。もちろん、一定のアルバイト料を払ってです。

佐藤
 今はもう、アルバイトになって消えてしまったんだろうと思うんですけれども(まだ、新居浜は、自分からやりたい人間がいっぱい入ってくる)、あの、昔あった年齢集団というか、そういうことをちょっとお伺いしたいんですが。

松本
 そうですねえ。新居浜では、実際にお祭りの太鼓台をかつぐのは、若い世代の人たちだろうと思いますけど。京都の周辺には、お宮さんの祭りをする家々、あるいは、その家々で年齢に応じた役割の分担というのがあります。普通、私たちの間では、「宮座」という言葉を使います。お宮さんに集まる、そういう組織があります。京都の都心部よりも、むしろ近畿一帯にというふうに考えた方がいいかと思いますねえ。これは日本の中で、おそらく近畿の特徴だというように考えていいかと思いますけれども。
 それは、約4世紀から5世紀、日本の中世のころからずっと続いている組織です。この組織はですねえ、氏神さんに人々が集まる中で、「おとな」つまり男子の一番年齢の高い人たちが、祭りの重要行事を行います。それから、40代から50代くらいの人たちが「ちゅうろう(中老)」という言葉を使って、それに次ぐ役割を果たします。それからさらに「わかいし(若い衆)」といわれた、つまり青年団の諸君が、そういう人たちの役割を手助けしている、そういうことになります。あるいはまた、もっと若い小学生、中学生、高校生くらいは、また年齢に応じた祭りの役割を果たしております。そういうように、京都近辺の村々では、年齢というものを考えながら、祭りの行事に役割を決めております。年齢というものは、非常に、これはむしろ古代的な、そういう響きを持つ生活の原理だと思いますけれども、そういうものを持続させながら一つの社会の秩序を維持していくために、こういった年齢というものをとっているようです。今もこれは崩れないで、近辺にずっと続いています。
 大島の、佐藤さんの御研究を見ました折に、「大島の若い衆」という言葉が出ておりましたけれども、京都近辺にもそういうものがありますし、それからさらに、太平洋沿岸地域の漁業をやっている地域では、年齢によって村生活の秩序を維持していくということが非常に多かったし、まあ今は大部分崩れてしまいましたけれども、そういうものがずっとあろうかと思いますねえ。つまり、自治会、京都では町内といいますが、町内というものが祭りを支えていた、あるいは年齢の原理によって祭りを支えたり、あるいはまた、それ以外のことによって祭りを支えたり、こういうような支え方がいろいろあると思うんですね。そこの問題をやはり突っ込んでいく必要があろうし、突っ込まなければ住民の生活の中身がやはりわかりにくいんじゃないかと、そういうようなことなんですね。

佐藤
 年齢集団いうことを研究していくというのも非常におもしろいし、新居浜なんかだと、中高生がちょっと太鼓台から断絶されているという部分もあるし、また今から見ていくうえでは、おもしろい視点であるということですね。

松本
 そうですねえ。今申し上げた事柄について、ちょっと補わさせていただきたいと思います。私たちは、今祭りを支える基盤について申し上げましたけれども、もう一つはですねえ、祭りへの参加の仕方が非常に違った形で、それぞれあるんじゃないんかと思うんですよ。
 例えば、一つの家庭を考えましても、御主人が祭りへ出て太鼓台をかつぐという役割があり、そういう参加の仕方があります。でも奥様が祭りの太鼓台をかつぐわけじゃなくして、おうちで祭り行事をするという参加の仕方、子供たちはやはり子供たちなりに祭りに参加しております。女の子供さんたちは振袖を着て華やいで祭りに参加します。あるいはまた、御年配の人たちは、実際に通りまでいけないけども、自分の家の角口で、太鼓台を見、そしてそれを楽しんでおります。つまり、こういうようなものが、祭りだと思うんですね。祭りに、いろいろな形の参加の仕方がある。そしてまた、その1軒の家庭だけでなくって、地域にまで広げていきますと、いろいろな御職業の方々が、それぞれの職業を通してそれに参加するというようなことを、やはり考える必要があるのではないか。祭りといえば、元気な若者たちが太鼓台をかついで、かき比べし、興奮のるつぼに入る、まあそういうイメージが強いんですけれども、祭りってそれだけだろうかというと、そうじゃなしに、今申し上げた事柄がやはり、祭りではないだろうか。つまり、いろんな形でいろんな人が参加する、そのことの重要性を考えなければ、何のための祭りであるのかということになるかと思うのです。
 今、私が申し上げたいという事柄の背後には、こんなことがあります。今まで、私たちの学問、あるいは、学問というようなことじゃなくても、広く研究していく場合には、個人一人一人というようなことを考える機会が少なかったです。たとえば、お祭りといいましても、その中にかかわる人たち、人間の顔が出てきません。あえて、申させていただきますけれども、『新居浜太鼓台』の場合でも、そういうものがある程度出ましたけれども、必ずしも十分な形で、その人間の顔が出ているとは思いません。今まで、一つのいわば家族なら家族という集団の中に、すべての人たちが抱えこまれて、あるいは、一つの地域であれば地域の中にすべての人たちが一色で抱えこまれて、それが単位になっていた。そうじゃなくって、今のわれわれの生活は、各人が自主・個性を持ちながら生きとります。その自主・個性を持った生き方を自然な形で表に表すということが、必要じゃないかと思うんです。そういうことからしまして、研究上の単位を、そういう塊というものから、塊を作り出している一人一人の個人に降ろさなければならないだろう。降ろした場合には、今まで考えてなかったような、いろんな場面が開かれてくるのではないでしょうか。例えば、一人の人間は生まれて、そして終末を迎えます。その今までの理解でしたら、小さいときに非常に知識が豊かに入り込んで、そして、青年期、中年期でそれらが開いて、そして高齢者になっていきますと退化する、ないしは成長が止まるというような理解がありましたけれども、今私たちが考えておりますのは、それは、不十分であるという、人間が生まれてから終末を迎えるまでたえず発達し続けるものである。こういう考え方であります。ですから、発達の仕方は、速度にしましても、その広がりにしましてもそれは違ってきます。しかも、人間が、成長し、生まれてから死ぬまで発達し続けるんだという説の考え方を前提にしております。そして、そういう発達の過程の中で、人々は年齢に応じて、年齢に応じた果たすべき事柄をし続けるんだ、小さい子供は祭りの時には、今申し上げたような振る舞いをするでしょう。青年期の人たちはかつぐでしょう。それを超えたOBの諸君たちは祭りを見るでしょう、そして高齢者の人たちは祭りに直接参加できないけれども、それを自分たちでまた眺めていく、そういうような年齢に応じた形の役割を積み重ねていって、それで一つの祭りなら祭りというものが出来上がる。ある部分だけがあって祭りが出来上がるわけではないというように考えていきます。
 ですから、私たちは、生涯人間が発達しながらそして年齢に応じて、その役割を果たしていく、そういう人間の同士であるということでもって進めておりますので、それに応じて新しい祭りの研究の改革ができるのではないでしょうか。
 私たちは、文化というものが、小さいときから、お母さんと一緒にいるときから、そして成長して成人していく過程の中で、入り込むというふうな考え方を持ちます。いろんな太鼓台の祭りが、子たちの中に入り込んでいくというようなことになっていきますので、ここの新居浜市の皆さんが非常に太鼓台に血沸かすというというのは、そういうような事柄として説明できるんじゃないでしょうか。