データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)石垣作りの技術と生活

 ア 風・潮との戦い-三崎町の石垣

 **さん(三崎町井之浦 大正14年生まれ 68歳)農業
 「大佐田の船倉もこの井之浦の納屋(写真4-2-7参照)も、昔は船やエビ網の網干し等に使っておったのですが、今はどこも農機具等を入れる倉庫に使っています。ここの石垣は、浜に面しているため毎年のように来る台風の潮をかぶらんようにするのが、一番の目的です。それでも、2~3年に1回はこの裏の畑まで、潮につかってしまっておりました。ここ最近、護岸工事でそのようなことがなくなったんです。
 昔は、石垣を作るにもお金がないので、親戚どうし3~4人で手伝って作っとりました。石はこの浜の石の、一人で運べるくらいの物を持ってきて作ります。最初から平たい『青石』ばかりなので、あまり、はつって(たたいて)削ることはありません。とにかく、そこらに転がっとる石を、いかに組み合わせて積むかが大事でした。わしらよりちょっと下の年の者は、もうよう作りません。このような家の前の石垣を積むのは、2~3間(約3.6~5.4m)が1日がかりでした。どちらかというと、畑の石垣の方が、地盤を固めるため石や木を除けたりするから、時間がかかりよりましたな。昔は、4反ほどの畑で、毎日のように漁にも行っていました。わたしが25~6(歳)の時に、夏かんがどんどん作られるようになって、それまでの芋・麦にどんどんとって変わっていきました。当時はネコ車(一輪車)もなく、負い子で浜から石をしょって山にある石も使って石垣を作り、わたしも4~5反ほど、新しく夏かん畑を開きました。今は護岸工事で粗石(あらいし)がなくなってしまったので、石垣を作るといっても難しいですね。」
 「石垣を作るための道具としては、とび鍬(刃の長い鍬)とみぞかき鍬(刃の短い鍬)、ハンマーに手箕(てみ)(じょれん)を使います。積む要領としては、同じ長さの石は使わず、交互に重量がかかるようにすることと、目が合わさると弱いので必ず隣の下の石にかぶせるようにして積むことです。ハンマーと木槌で地盤を固めておいてから、下から順に大きい石を使って、石の間にくれ石(『ぐり』としての小石)を詰めていきます。土を入れると、潮があたれば流されて、石垣が崩れてしまうので使いません。」

 イ 段々畑を支える石垣-瀬戸町

 **さん(瀬戸町川之浜 大正11年生まれ 71歳)農業

 (ア)農業兼業での生活

 「父が、わたしと同じように農業の片手間に石垣の修理をしてまして、わたしも小さい頃から手伝いもし、またそういう仕事が好きは好きでした。やはり護岸や堰堤(えんてい)等の大規模なものは、専門のエバさん(土木業者)に頼んでおりまして、わたしらの仕事は台風や大水で崩れた畑や家の石垣を修復するのが主な仕事でした。大体一つの仕事にかかる日数は4~5日位で、年間の通算では、少ない時で30日くらいでしょうか。台風で大きな被害があると、何倍か仕事が増えます。おおむね、わたし一人でやりますが、依頼主が頼んだ人や妻が、『てもと』(手伝い)として1人付くこともあります。
 父が元気な間は、わたしも外に出働き(出稼ぎ)に行ってまして、主に八幡浜方面等で土木関係の仕事をし、農繁期だけ帰るような生活でした。ここらあたりでは、長男が家を継いで、次三男は、阪神方面に大工等で出ることが多いですね。石垣を扱うようになったのは、父が体を悪くしたため、わたしが出稼ぎをやめ家に帰ってからです。昭和45年頃ですから、20数年ほどになりますか。ただ、最近の若い人らは少々石垣が崩れても頓着しないようになってきて、仕事の量は減ってきています。石垣のお陰で土が流れてしまうのを防いでいるんですが。ただ、以前は石垣用の浜の石を運ぶのも全部負い子で、肥料も各家で飼っていた牛の糞を『かます』にいれて負(お)い子(こ)で持って上がってましたが、今は石運びも軽トラックかモノレールですむようになり、だいぶ楽になりました。また、段々畑だけでなく、台風や冬のやまじ風が強くて潮があがるため、以前は海岸べりの家も海側に石垣をしていましたが、これも護岸・道路整備で今はほとんどなくなってしまいました。」

 (イ)石垣作りの技術

 「作業の最初は『座掘(ざぼ)り』です。石をすえる場所を『座(ざ)』と言いまして、これがしっかりしていないとどうにもなりません。30cmほど地盤が固いところまで掘り下げます。ここらあたりは、少し掘るとすぐ岩盤が出てきて、(柔らかいのよりはましですが)また木の根もあるので、これを平たく整地するのが一番大変な作業です。崩れておる石垣は、おおむね座がきちんとしてなくて、底に据えてある根石(ねいし)(根元の要石(かなめいし))が安定せず、根から崩れているものがほとんどです。この根石の据え付けまでがきちんと終われば、仕事の8割方はできたようなものです。根石は大きいほど力が強いです。ただ、一人ですから、労力に応じたものしか据えれません。根石を据えるのは目見当でやりますが、石垣を作る長さが5・6mも越えるような場合には、水糸(みずいと)を引いて石の出たり引っ込んだりをなくして、見場(みば)をよくします。やはり突き出ている所は、体裁も悪いし、また弱いんです(『はらみ』になると言う。)。
 それから、石を積んでいくわけですが、同時に裏ごみ(積み石のあいだに入れる小石で、ぐり石・かい石とも言う)を入れて、裏のかえしをして積んだ石を固定していくわけです。土ばかりだとすぐ崩れ、ぐり石ばかりの方がいいです。土と小石を一緒に入れながら、げんのうでたたいて小石をしめます(固くします)。ここでしっかりと固めておかないと、下の石を押し出してしまいます。
 積む場合には、大きいきれいな面を表にだすようにし、合(あ)い場の石を縫(ぬ)い(交互に積むこと)、品の形になるようにします。平石(ひらいし)(四角形の石)だと布積みで積みいいんですが、三角石でも、げんのうでぐり石をはさめておけば十分です。石をはつって(たたいて)削り、接合部分を合わせることもありますが、普通はそのまま使います。ただ、『角石(かどいし)』(石垣の隅の部分)だけは、石をはつって四角形にして築き上げます。これは、一番崩れやすいのと他の畑との境界線になるからです。角石は、奥行きの長い石を、交互にかませて積み上げます(算木積(さんぎづ)みと呼ばれる。)。他の所と違って土を少なくし8割方はぐり石にします。最後に、一番上の『天(てん)ば石』を、てっぺんの横目地にそろえて積み、石垣ができます。勾配は、3分勾配(傾斜角63度)が多いですが、高い石垣を築く場合は、4分勾配(傾斜角54度)にします。
 築き方は、『平つき』(後述の『布つき』と同じ、布積み。)と言って、平行に石を積み上げていくことが多いのですが、縦に築く方が強いです。これも石の有無や傾斜等、場所により変えます。昔の先祖が築いたものとは、積み方が違ってまして、昔は『やちゃらづき』(後述の『矢羽根づき』の一種か?矢筈(はず)積み?)と言って、斜めと縦を混ぜた積み方をよくやっていますが、今はそのやり方は十分わかっていません。農業の片手間に、少しでも皆の役に立てばとやってきましたが、今まで築(つ)いたり直したりした石垣で崩れた物がないことだけは、誇りに思っています。」

 ウ 波止の石垣-伊方町

 **さん(伊方町河内 昭和4年生まれ 64歳)建設業

 (ア)修行時代

 「わたしは15歳で鉱山(町内川永田の銅鉱山)に入りましたが、戦後の閉山で東京の工場に働きにでました。その後、こちらに帰ってこんといかんようになって、17歳の春に保内町の**さんの所に弟子入りしたのが、この仕事の始まりです。**さんは、当時町内大浜集落の波止(はと)を造っとりまして、その飯場(はんば)に泊まり込んで仕事を覚えていったんです。その後何人かの親方の所に入って20歳で年(ねん)(年期)があけるまでの3年間は、見習いでした。飯場といっても親方の家に泊まることも多く、麦や南京米を炊きこんだ南京ぞうすいをよく食べてました。勤め始めた頃の見習いの給与が、日役で2円、一般の人夫が2円30銭で、肉体労働としては同じ仕事をするからでしょう。独立すると、人夫さんの給与の約3倍で、仕事の契約は、今でも(1日いくらの)日役で請負賃です。
 それぞれの親方に得意の分野があり、それを学びたいと思えば、その親方が新しく仕事を請け負ったところに行って雇ってもらい、仕事を覚えていくわけです。松山の親方のもとで働いたこともあります。そして現場で親方や先輩の仕事を見て、体で覚えていくんです。
 我々のような業者に頼む仕事は、身内でやれない波止・堤防工事や家や道路の基礎工事が主ですな。独立してからはずっと、叔父が建設会社をやって請負工事をしておりましたので、そのもとで石垣や基礎工事の仕事を担当してきております。昔は、伊方町内でも各集落ごとに専門の石屋がおりましたが、最近は全部ブロックで積んで工事の一環としてやってしまうので、今は(町内では)専業でやっているのは私と弟の2人です。」

 (イ)波止造りの技術

 「波止の石は、段平(だんべい)船で、歩み板をかけて人がやるか(起)重機(じゅうき)で積み込み、大きな石は現場に降ろす時は船の重機で降ろしよりました。やや大きめの石は、てこで両方から持ち上げてチェーンをかけ、天秤(てんびん)棒で6人ほどが担って運びます。波止の沖の方に降ろす時は、小さい石でも重機を使います。昭和35年頃までは、ほとんどがここらあたりの青石でしたが、その後はほとんどブロックに代わっていきました。大きい石は石場から取ってきます。
 町内の仁田之浜(にだのはま)に会社が山を買ってまして、その石を運びました(ちなみに仁田之浜は昭和に入ってからの石船、戦後の砂利採取船で有名であり、高度経済成長の土木工事が多かった40年代前後の最盛期には40隻近くを数えた。その後の砂利採取規制で衰えたが、現在でも10隻近くが活動している。(⑤))。道具はのみ、てこ(はでこ)、げんのう(小さい角の尖ったものは『はづち』と言う)が主な物です。『矢(矢金(やがね))』(鉄製楔形の用具)で石を割ったり、『のみづけ』といって、のみで接合部分を削ってきれいに合わせるようにもします。
 石のつき方には、『布づき』(平面の石をよこに積み重ねて積んでいく、布積み。)、『矢羽根づき』(下石が作る谷へ上石をはめていく積み方、矢筈積み、谷積み。)とあり、波止は全部『落しづき(乱れづき)』(大小の石を組み合わせ、凸部を凹部にはめこんでいく積み方、乱積み。)です。『落しづき』の方が、波に耐える力が強いからです。波止では、土は入れずに石だけで組み、石の後は全部『すけ石』(「ぐり石」のこと)を入れます。波止の石は『のみ石』と言って、面(おもて)(表面に出す部分)が小さくても、奥行きの長い石を使います。『通り』(まっすぐな線)をにらんでは根石をすえていき、一番上の部分には『つなとり』と言って、長い石を真中に差し込み、てんば(最上部)がアーチ型になるように積みます。『角石』が一番苦労で、いい石が無いとできず、そのために工事が遅れることさえあります。おおむね船の重機か、陸から落とし込むかですが、中途半端な深さのところは『ダッコチャン』(潜水用ウェットスーツ)を着て潜り、下の座をそろえて積むこともあります。この時ばかりは、ドラム缶に湯を沸かして入りながらじゃないとやれません。波止も基本的には段畑と同じで、座の高さをそろえることが、長く保つためには、一番肝心です。
 また、道路工事の基礎部分は『間知石(けんちいし)』(四角錐体の頂部を切り捨てた形の切り出石。)を使うことが多いです。県等の請負工事では、甲は『ひかえ』30cm、乙は40cm、丙は50cm と一定の規格が合って積みます。『聞知石』の場合は、最初から規格に合わせて削ってあるので、バランスに注意して順に積みさえすればよく、ずいぶん楽です。
 息子にも、家業を継いでみるかと言ったこともあるんですが、なかなか危険な作業でもあり、コンクリートブロック等の発達で将来的な確かな見通しが無いためそのままになりました。半島の生活と切り離せない石垣ですが、その技術を今後に伝えていくのはなかなか難しいかもしれませんな。」

写真4-2-8 瀬戸町の段々畑の石垣

写真4-2-8 瀬戸町の段々畑の石垣

平成4年11月撮影

写真4-2-9 三崎町正野の石波止

写真4-2-9 三崎町正野の石波止

平成4年11月撮影