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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)荒れる土用波

 シタテに暮らす人々にとって大きな脅威となっていたのは、荒れ狂う大波である。以前は、八幡浜への交通は海路中心で、半島を浦ごとに巡る船に頼っていた。遠浅のため浜には直接船が着けない大久や川之浜(かわのはま)などでは、はしけに乗って浜と船とを行き来した。ちょっとでも海がしけるとはしけが出せず、大久から塩成(しおなり)の港まで2時間以上かけて歩いたという。     
 「瀬戸町誌(①)」によれば、大久には「浦芸人のたたり」という言い伝えがある。

 浦芸人のたたり(大久)…抜粋
 大久の沖合約50mの所に、東西約1km・幅約50mほどの瀬があり、引き潮時には子供の膝下ほどの浅瀬になる。この瀬にまつわる悲しい哀れな物語が伝えられている。
 佐田岬半島の浦里では、毎年春の農繁期前になると「春芝居」の一座が浦から浦へ小船に乗って巡回していた。ある年、一座の小船が大久の沖にやって来たところ、一天にわかにかき曇り激しい雷雨と烈風で海は荒れ狂い、波間の木の葉のように漂うのが精一杯であった。一座の人たちの必死の祈りもむなしく、ひときわ激しく大きく打ち寄せる波のためにあっという間に転覆し、荒れ狂う海原に放り出されてしまった。「助かりたい」一心で浜辺へと泳いだが、高波のためあえなく消え去ってしまった。この様子を浜辺から見ていた浦人たちはただぼう然とするのみで、地獄絵を眺めるようであったと伝えられている。翌朝浦人が海岸へ出て見ると、前日とは打って変わって海はなぎ、春の陽光が照りつけていたそうだ。しかし不思議なことに、そこには一座の遺体はもとより小船のかけら一つ発見できなかった。その後、浜の沖合に奇怪な岩の瀬ができ、船の座礁や子供の水死事故が相次ぎ、一座の人たちのたたりではないかと伝えられている。今でも瀬のあたりを少し深くもぐって見ると、長持ち・鏡台など芸人が芝居で使う道具に似た形の岩礁に出くわすことがあるそうである。

 「大久は、半島で一番波が荒いです。」と、**さんは語る。冬の間季節風で悩まされるウワテに比べると、期間は短いが、土用波と台風の激しさは勝るとも劣らない。
 「終戦の年(1945年)の枕崎台風はとくに大きかった。浜端にあったおりや(住居)も倉庫もだいぶ流されました。隣の川之浜や塩成では死者もずいぶん出ました。また、昭和24年のデラ台風のときは、遭難した日振島の漁民の遺体が、塩成の浜に相当漂着しました。台風といえば去年(1991年)の台風19号もすごかった。防風林もミカンもずいぶん被害がありました。うちのキヨミタンゴールも枯れてしまいました。」
 そんな台風に対して、住居の工夫はないかと聞いてみると、「そうですなあ。この地域独特のものはこれといってありませんが、大久では『切り屋』と言って、少々かっこ悪くてもシンプルな形の屋根が好まれているようです。松山にあるお城のような屋根では、すきまからすぐ漏りますからねえ。このあたりでは、風の抵抗を少なくするような、台風に強く雨が漏らないのが、屋根じまいもしやすくいいんですよ。」と答えてくれた。
 なるほど、高いところから大久、川之浜、塩成の各集落を見下ろすと、「切妻」「寄棟」の屋根が、風に逆らわないように低く軒先を寄せあって広がっている(写真3-2-2参照)。
 「瀬戸町誌(②)」には、ウワテでは風の来る北側、シタテでは南側の屋根に、屋根瓦が飛ばされないように「フクロ石」を置くと記されているので聞いてみたが、「三崎町なんかでよく見かける屋根の上の青石は、古くなった屋根で少し見られますが、このあたりではあまり置きません。」とのことであった。
 大久で新築中の家を見かけたので、大工さんに尋ねた。「最近の瓦は、このように穴と突起があるでしょう。あらかじめ屋根に瓦の間隔になるように細い木を横方向に渡して、『ひっかけ桟』を作るんです。瓦のこの突起をあれにひっかけるようにして並べ、穴のところを釘で固定するんですよ。昔は、屋根の上にも土壁みたいな粘土状のものを敷き詰め、そこに瓦が吸いついて固定していたんですよ。だから、以前の瓦にはギザギザの櫛目をつけてありました。年数が経つと、土の粘りがなくなって瓦が浮いてくるでしよ。そうなると漆喰で固定することもありましたが、この辺では石はあまり置きませんでしたねえ。」と、教えてくれた。

写真3-2-2 大久の集落

写真3-2-2 大久の集落

平成4年8月撮影