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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)伝説と動物たち①

 ア カッパの伝説

 愛媛県ではカッパ(河童)のことを、エンコ・エンコウ・オソなどの方言で呼ばれている。また、動作が敏しょうで、その姿はどこかカワウソに似ているので、カッパはカワウソではないかともいわれている。

  ① エンコの恩返し

 **さん(三瓶町朝立 昭和2年生まれ 65歳)に聞いた。
 「昔、三瓶町の朝立(あさだつ)川は、向山(むこうやま)の根を通って流れていたそうです。そのころの話です。夜更けに、土手の道を馬を引いて馬方さんが歩いていました。馬方さんは、おやっと立ち止まりました。
 夜更けに、一人の女の人が流れのところに何かしているのです。じっと見ていると、水藻を、ひょいと頭にのせますと、きれいな島田になりました。また、ひょいと水藻を肩にのせますと、きれいな着物になるのでした。みるみるきれいな着物姿の娘さんになったのです。
 そこで、その娘さんに声をかけまして、『娘さん、わしは安土(あづち)へ帰るがやが、あんたはどこへいきなはるがぞな。』といいますと、『わたしも安土の伯母のところへ行きます。』といいました。『ちょうどええけん、この馬にのんなはい。』といいまして、馬に乗せたそうです。そうして『この馬はときどきあばれるけん、落ちたらいけんけん。』といいまして、娘さんを綱でぐるぐる巻きにしました。
 家に帰ると大きな声で、『エンコをつかまえたぞ、はよう明かりを持ってこい。』といいました。がんがらまきのその娘さんを、いろいろ責めたてましたが、『わたしはエンコではありません。』といって、エンコにはならなかったそうです。馬方さんも酒を飲んでいたので、気のせいかなと思いまして『娘さん、すまんことをしましたな。酒を飲んじょりましたけん、こらえてやんなはいや。』といって綱をほどきました。
 つぎの朝のことです。馬方さんの玄関に、魚が何匹か引っ掛けてありました。それからは毎朝、毎朝、魚が掛けてあるものですから『だれかな』と思って、ある日じっと待っておりますと、一匹のエンコが魚を持って来るのを見たのです。やっぱり、あれはエンコやったがやな、と思いました。
 ところが、毎朝魚を掛けてくれる、玄関の古いくぎが小さいので、鹿の角でかぎをつるしました。そうしたらその日から、ぴしゃりと魚を持ってこないようになったそうです。
 このことから、エンコに引っ張られないようにするには、鹿の角がよいということが分かったのです。
 昔、牛や馬が沢山いた頃は、手綱や頭に、鹿の角の一部を必ずつけていました。また、子供も水泳するとき、鹿の角のついた首輪をしている人がありました。」
 **さんは、人のよい馬方さんになり切って、しかも味のある方言を交えながら興味深く話してくれた。

  ② 相撲をとる伊方のカッパ

 石川純一郎氏「河童の世界(⑥)」より。
 「昔、伊方村(現在の伊方町)に相撲取りがいて、祭りに行って餅を沢山もらって帰る途中、小谷にさしかかると、歩くたびに何か足につきまとって歩けなくなり、踏んばってはずそうとするが、どうにも離れない。しかし、何も見えはしなかった。その相撲取りは、これがカッパというやつだな、と思い当たり、提げている重箱を傍らに置いて取り組みの姿勢をとった。すると、カッパが組みついてきたので、双方とも盛んに争った。
 カッパは姿勢を高くしたり、低くしたり、伸縮自在に攻めるので、さすがの相撲取りもさんざんてこずっていると、ちょうどそこを通りかかる者があったので、カッパは相撲をやめて断崖から海中にどっと飛び込んでしまった。相撲取りはやれやれとばかり家に帰ってみると、体はかきむしられて血みどろになっているし、重箱の餅も、馬糞と入れ替えられていたという。」

  ③ オソゴエ(地名)と伝説

 **さん(三崎町串 昭和5年生まれ 62歳)に聞いた。
 「佐田岬半島突端部に、オソゴエ、と呼ばれる地名があります。かつてこの地(正野)は無人でしたが、慶応3年(1867年)串部落の有志数十人が、伊達藩より開墾の許可を受けて、入植したのが始まりと記録されています。
 昔、オソ(カワウソ)はえさを求めて上手(うわて)(瀬戸内海側)と、下手(したて)(宇和海側)の間を移動しながら生息していたようです。突端部は潮流が速く、泳ぐことが得意な彼らでも渡ることが困難であったのでしょう。
 突端部より1km程手前の低地(標高10m以下)をオソが越えていたので、いつの間にかオソゴエと呼ぶようになったと思います。なお、上手側をウワゴエ下手側をシタゴエと呼んでいます(図表3-1-1参照)。
 伝説その1、昔(年代不詳)正野(しょうの)部落の清水さん(男)が、小船で雨の中を一人で釣りをしていて、オソに化かされ、オソと相撲を取っていた……とか。
 その2、串部落の阿部又松さん(明治中期生まれ)と言うかたが畑仕事から帰る途中、見知らぬ女の人から酒を勧められ、酔って帰り気がついてみると、衣服は脱ぎ捨てて素裸だった……とか。」

  ④ カッパの狛(こま)犬

 明浜町高山の若宮神社にカッパの狛犬一対がある(写真3-1-1参照)。向かって左側のカッパは右手に大きなタイを抱えている。土地の人達はエンコ様と呼び親しんでいる。
 祭神は高山城主になられた宇都宮修理太夫正綱公で、村人をだいじにした方だと伝えられている。「明浜町誌(⑩)」によればこの正綱公にまつわるカッパの恩返しの伝説から具象化された狛犬であるといわれている。

  ⑤ カッパの方言

 助けられたカッパが、恩返しに魚を届けたり、富や幸せをもたらしたりする。一方カッパはよく人の尻(しり)や肝臓を抜きとったり、水中に牛馬を引っ張り込んだりする。こうした習性から出た方言には、イドヌキ・シリコボシ・シリヒキマンジュウ・カンコロボシなどがあり、尻(つべ)を抜くことを表した名称とされている。
 また猿は形態的にカッパの空想図に近いところがあって、中国・四国地方ではカッパをエンコウ(猿鼓)と呼び、地域によってはカワザル・フチザルなどとも呼んでいる(⑥)。
 昔、全国の河川に住んでいたカワウソがカッパで、人をよく化かすと信じて、カワウソ(獺)、カワッソ、カワソ、オソなどの方言で恐れられたりする。
 これらの動物は、人に次いで大脳の発達したほ乳動物であるから、行動の目的に対してもっとも適した手段をとることができる。だから人に挑戦したり煙にまいたりすることがあるかも知れないと思う。豊かな自然と表裏一体の、脅威の自然の中に生きてきた人々の「あかし」がカッパの伝説ではないかと思う。

 イ ニホンカワウソ

 ニホンカワウソは、昭和10年(1935年)ころまでは全国各地に分布し、愛媛県では特に宇和海沿岸地域の河川や池に生息していた。しかし昭和20年代には日本のほとんどの地域から姿を消し、愛媛県では昭和50年以来生息が確認されていない。
 最近(平成4年)高知県南西部の佐賀町で、ニホンカワウソの体毛が発見され、生息が確認されたと報じられた。これは、昭和61年に幼獣が死体で発見されて以来6年ぶりである。愛媛県では、昭和35年県獣に指定され、昭和40年には、国の特別記念物に指定されている。

  ① ニホンカワウソの生態

 ニホンカワウソは、イタチ・テン・アナグマ・ラッコ等の仲間に属しているが、特に水中生活に適応して、短い足には蹼(みずかき)がある。体長60~70cm、尾は40~50cm・体重6・7kg余りの流線型で、密生した体毛で全身が覆われている。
 この毛は独特の上毛と、極めて細かくて柔らかな光沢のある、下毛の二層になっているので、水中に入っても空気層ができ、直接皮膚がぬれない構造になっている。
 しかし、カワウソが実際に自然の中で、どんな姿で生活しているか、その生態はよくわからなかった。
 昭和31年11月、佐田岬半島で野ツボに落ち、危ないところを保護されたカワウソが県立道後動物園に移送され、日本では唯一のカワウソの飼育が行われた。
 そうして、数々の貴重な生態記録や、資料を得たのであるが、昭和35年8月には老衰死してしまった(②)。
 カワウソは、イワシ・アジ・サバなどよりは、ウナギ・ドジョウ・エビ・カニなどの小さい魚介類が好物のようである。えさの食べ方は独特で、ドジョウやエビ・カニは捕えたら、水中で食べてしまうが、ウナギのような少し大きいものは、必ず水中から上がって両足で魚を握るような格好で押さえ、ゆっくり頭から骨ごと食べる。そして、しっぽは残す。
 カワウソは、水中に4・5分潜ることができ、泳ぐ時は、長い尾を左右に振り、体を魚のようにくねらせて前進する。また陸に上がっても尾の役目は大きい、それはカワウソが後足で立ち上がった時、大きな尾が体の支えになってほとんど直立できる(②)。その他魚の逃げるのを防いだり、物を取るのにも使ったり、カワウソにとって尾の役割は大きいようである。

  ② ニホンカワウソの楽園と地獄

 宇和海沿岸地域の海岸地形は、出入りが多く、長い海岸線を形作り、海食崖が発達している。そして河川や池(大島の龍王池・三崎町阿弥陀(あみだ)池・伊方町亀ケ池など)が多い。昔は、えさとなる魚貝類も非常に豊富であったので、生息は容易であったと思われる。
 カワウソは、こうした環境のもとで、かなり広い行動圏を持ち、その途中には、何か所かの休息所(遊んだり、えさを食べる)を作り、そこを定期的に回りながら生活をしているようで、カワウソにとっては楽園であったに違いない。
 平成4年8月、愛媛県立博物館で、絶滅の危機にひんしている、ニホンカワウソの生態や、その素顔、さらに人間とのかかわりを詳しく、動物保護の立場から展示紹介された。
 その中にカワウソは、どんな自然の中で生きてきたのか、その楽園が再現してあった。宇和海沿岸には、このような自然がいたる所にあったと、つくづく感じた。
 ニホンカワウソは、昭和10年(1935年)ころから急減してしまった。その原因ははっきりしている。その一つは、何といっても毛皮の質が特に優れている。しかも肝臓が肺結核の特効薬のようにいわれ、乱獲されてしまった。
 次に自然災害による被害も、大きいと思う。昭和13年(1938年)南予地方を襲った大水害があり、昭和18年(1943年)にも、県史上空前の大洪水があった(⑤)。カワウソの巣、遊び場はどうなったことか、普通なら水辺に近い川原や、アシの原を可能な限り道として利用していたが、果たして海に向かって、山に向かって難を逃れることは、おそらく不可能ではなかったろうか。
 いま一つ大事なことは、戦後の開発である。河川や道路の改修などによる住みかの減少。農薬や家庭排水など、水の汚染による食べ物の不足。ナイロンの網にかかりでき死、路上で事故にあうような事例まで増加した。人間の生活圏が拡大するとともに、ニホンカワウソの生活圏は失われていった。
 環境の変化には極めて敏感で、魚や力二などの食物の豊富な所でなければ、生活できないカワウソにとっては、まさに地獄となったにちがいない。

  ③ ニホンカワウソの住んでいた川

 以前、カワウソが住んでいたという、伊方大川(伊方町)へ行ってみた。海岸から少し山手に入った所に、ちょうど5・6人の女性がいたので、「昔、この辺りにカワウソがいたそうですが。」と尋ねると、早速返事が返ってきた。
 年のころ70歳位の方が、川上の方を指さしながら、「はい、いました。もう少し上の方です。わたしは見たことはありません。以前はそのあたりはアシが茂りヤブになっていました。小さな滝もあり水たまりもあったんです。今は川の護岸工事や道路も出来ましたから。……今はタヌキがその道で、時々車にひかれています。」こう話してくれた。
 しばらく川沿いに歩いてみたが、先の女性の言葉どおりであった(写真3-1-5参照)。

  ④ カッパ伝説を生んだカワウソ

 人間が、地球上で最初に住みついたのは、海岸や河川沿いのほか、草原などであった。これはちょうど、カワウソの生息地に一致していると思う。
 カワウソは、おもに夕方や明け方に行動する夜行性の動物で、その上極めて敏しょうであるから、人の目には、神出鬼没だったにちがいない。
 また、カワウソの額から上の頭頂部が、他の動物に比較して大変平たい、だから水中から顔を出しても、目と鼻以外は目立たないようにできている。カッパ伝説のカッパの「サラ」のいわれを思い出させる。
 そのうえ、カワウソが長い尾を使って川岸や、川ぶちで、急に立ち上がったらどうであろう、不気味なよう怪を連想したり、気を失ったり、化かされたりする可能性は大いにあるように思う。
 しかし、カワウソの素顔は、実にスマートで愛きょうがある。伝説のカッパとは似て非なるものである。
 現在、ニホンカワウソの絶滅の証拠はない、せめて生き残ったニホンカワウソの絶滅だけは防ぎたい。そのためにも、人間自身が地球上に住む一員であることを改めて考えてみたいものである。

 ウ 石像に見る動物達

 宇和海沿岸地域の神社・仏閣の境内、墓地・海岸地・路地など至る所に動物の石像がある。その多くが風雨にさらされて風化が著しい。中には文字が読めなくなったり、破損したものもある。
 石像の背後にはその地域の自然や歴史が秘められていると思うので、その所在を確認した。

  ① 魚霊供養塔とエベス様

 三崎町正野の野坂神社入口近くの道路端にある。石の中央には「魚霊供養塔」とあり、昭和36年8月建之・其田惣治氏の名がある。三崎漁港に向き建立され、並んで右側にはエベス様が祭られている(写真3-1-6参照)。

  ② 鯨地蔵と鯨塚

 鯨地蔵は三崎町三崎の八幡神社下の交差点脇にある。天保9年(1838年)に成立とあるから、今より約150年前である。地上1.5mほどもある大きい地蔵様である(写真3-1-7参照)。
 また鯨塚は三崎町串(元・串渡海船待合所)の海岸に高さ約2.4mの緑色変岩が建ち、地元では鯨塚と呼んでいるが、文字そのほかなにも刻まれていない。

  ③ 狸地蔵

 三崎町三崎に天然記念物で有名なアコウ(アコギ)の大樹がある。これより民家の立ち並ぶ狭い路地を登ると墓地がある。
 ここに小さな祠(ほこら)があり、15cmほどの小さいタヌキの座像がある。正面に狸地蔵と刻まれている。地元の人によると、昔この付近に大火があった。
 その原因は当時よく出没していたタヌキによるものだ。こう信じて、火災防止を祈願してタヌキを祭ったそうである(写真3-1-8参照)。

  ④ ニホンカワウソ

 三崎町三崎の八幡神社境内に、国の天然記念物に指定され、その生息の確認や保護に関心を集めている、大変珍しいニホンカワウソの石像がある(写真3-1-9参照)(③)。
 肢体の細部まで浮き彫りされているが、成立年そのほかの文字は全くみられない。
 カワウソはこの地域ではオソと呼ばれ、恐れられたり、カッパ伝説にも登場する。

  ⑤ 猫地蔵と蛇地蔵

 猫地蔵は三崎町三崎の伝宗寺境内に猫地蔵と刻まれた石の上に、大きさ約20cmの猫の座像がある。現在は猫の頭部が欠落していて残念である。
 蛇地蔵も同じ伝宗寺境内にあり、へび地蔵の文字が自然石に刻まれ、この石の頂部には蛇の頭部が彫刻されている。
 なお説によると、昔与侈(よぼこり)付近の道路改修の時、大蛇が岩の下敷になって死んだということがあり、おそらくその蛇を供養したものではなかろうかと伝えられている。

  ⑥ 鹿地蔵と鹿の石仏

 鹿地蔵は三崎町三崎の伝宗寺脇の道路端にある。佐田岬半島にはかつて、半島の最高峰の伽藍(がらん)山(414m)、瀬戸町塩成(しおなし)の狩浜(宇和島藩主が参勤交代の途中、鹿狩した記録がある。)などを中心に鹿が沢山いた(④)。こうした鹿の供養と考えられるが、この鹿は前足を交叉しているのはなぜであろうか。成立年そのほか不明である(写真3-1-10参照)。
 鹿の石仏は瀬戸町三机の長養寺境内にある。縦25cm・横27cm位の石に浮き彫りしてあり「雌鹿陀仏」と刻んであり大変珍しい。おそらくこの地域に住む人達が、自然の中で生きている動物に対する優しさの表れではないかと思う(写真3-1-11参照)。

図表3-1-1 オソゴエ

図表3-1-1 オソゴエ

カワウソをオソと呼び、この辺りでは恐れられていた。

写真3-1-1 カッパの狛犬

写真3-1-1 カッパの狛犬

若宮神社の狛犬、右手に大鯛を抱えている。平成4年11月撮影

写真3-1-5 伊方大川

写真3-1-5 伊方大川

昔、ニホンカワウソが住んでいた。平成4年11月撮影

写真3-1-6 正野の魚霊供養塔

写真3-1-6 正野の魚霊供養塔

平成4年10月撮影

写真3-1-7 三崎の鯨地蔵

写真3-1-7 三崎の鯨地蔵

平成4年10月撮影

写真3-1-8 三崎の狸地蔵

写真3-1-8 三崎の狸地蔵

平成4年10月撮影

写真3-1-9 ニホンカワウソの石像

写真3-1-9 ニホンカワウソの石像

三崎の八幡神社境内。平成4年9月撮影

写真3-1-10 鹿地蔵

写真3-1-10 鹿地蔵

平成4年9月撮影

写真3-1-11 鹿の石仏

写真3-1-11 鹿の石仏

平成4年9月撮影