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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)魚市場を支える人々

 八幡浜市魚市場の取引高は130億円をこえ、西日本有数の魚市場である。これは、漁業者の方々の努力の賜物であるが、また魚市場からの流通・出荷のシステムが確立しているからでもある。出荷・仲卸業者の方々の聞き取りから、その特徴と変遷をたどってみたい。

 ア 八幡浜市魚市場の構成と現状

 「八幡浜市水産物地方卸売市場」は、産地市場として昭和55年に八幡浜市が、それまでの4業者による市場を統合して開設したものである。その構成と取扱状況は、以下の図表2-3-15のようになっている。市による魚市場開設を契機に取引が順調に発展していることが分かる。
 図表からも分かるように、出荷業者は県外消費地市場(阪神方面が中心)への出荷を、仲卸(なかおろし)業者は、主に近辺の小売人への卸売を業務としている。特に、県外への出荷ルートが確立されており、取扱高の7割が出荷業者によるものである点が、八幡浜魚市場の一つの特徴であろう。また、(ねり製品を中心とした)加工業者が一定の割合を占め、安定した需要があることも、魚価安定に貢献している。市の広報面や八幡浜まつり等でよく使われる、「てやてや」と言うのは、市場のせり人の使う言葉で、(買受け業者がせり人に指で買取り値段を示すため)早く「手を出せ」の意味である。もって、市民の魚市場に対する関わりの深さと親しみの度合いの高さがわかる。

 イ 出荷業者として

 **さん(八幡浜市沖新田 大正14年生まれ 67歳)出荷卸業経営

 (ア)戦前の商売

 「八幡浜では、トロールもあり漁獲が多くて、とうてい近辺では魚をはかすことができず、戦前から大阪通いの汽船・機帆船で、『上方送り』と称して鮮魚を出荷してましたですね。当時はビール箱を使って氷を入れて何段積みにもして、翌々日に着くようになってました。そのため、戦前から(魚市場を開いていた)坂田さんなどの出荷業者が、県外の業者としっかりとした人間関係を築き、阪神方面を中心に販路が確立しておったわけです。また八幡浜の市場の魚種の多さ、新鮮さに対する全国的な高い評価も、そのような人々の努力で戦前から生まれてきたものです。(『八幡浜港(⑭)』により、大正4年の港移出入表をみると、生魚は大阪・神戸・香川方面を移出先として、97,500貫・97,000円で、他には乾魚44,000貫・24,000円、煎り子24,000貫・31,200円が大阪方面に移出されている。ちなみに同表中の他品目の移出では、果実が72,500円、生蠟が42,500円である。)」

 (イ)交通と商売の関わり

 「父の代から出荷業をやってましたが、わたしは大阪の大学を卒業して、しばらく会社勤めをしてました。昭和28年にこちらに帰ってきて商売を継いだのですが、当初は、本当にわからんことばかりで父から厳しく仕込まれました。タイでもマタイ、チタイ、レンコタイと素人目ではなかなか分からず、まず魚種をみわけることから勉強したもんです。
 当時は『上方送り』は、ほとんど鉄道便で、10年ほどは、貨車に箱積みして『えぶ札』(荷札)を付ける毎日でした。トラック便になったのは、38年前後に(瀬戸内海航路に)フェリーがでてきてからです。しかし、当時は夜昼峠越え(国道197号線夜昼トンネル開通は昭和46年)で、松山まで3・4時間もかかり大変な面が多かったです。東京送りですと丸2日かかり、その間に相場が下がり損をした経験も何度かあります。一方では、下関の鉄道事故で九州方面の魚が入らなかったため、(トラック便にしていた)我々が大もうけしたこともありました。瀬戸大橋ができてからは、東京へも昼の12時に出れば夜中の0時に十分間に合うようになりました。今後は特に国や県の施策で高速道路網が整備されていけば、より鮮度の高い、つまり高価格の魚を扱って行けるのではないかと思っています。」

 (ウ)仲買人としての苦労

 「魚価を決めるためには、確実な情報が命です。夜中の2・3時ころからでも、つながりのある全国各地の市場の荷受け人と連絡を取り合い、(もちろんこちらからの情報も提供して)どこそこの市場でどれくらいの漁獲があるかをつかんで、仕入れ価格を決めてせりに臨みます。アジ一つをとっても大アジは京阪神、中アジは中京北陸、小アジは関東と、魚種や大きさによって、向く市場が全部違います。マトウという魚は北陸で大量に高く売れます。大手市場で安くても、地方市場で少量の魚が高く売れることも多くあります。この商売ばかりは死ぬまで分からんし、勉強していかねば価格のことがつかめません。以前、西海漁協さんが(種ケ島のロケット実験の補償として)国からトラックを譲り受けたのを機に、出荷業も扱おうとされましたが、うまくいかなかったそうです。やはりそのような情報網や各地の市場に対する細部の知識等は、長年携わってきた経験がないと、すぐには身に付くものではないからでしょう。
 昔は、高知の土佐清水や高知市を除くと、四国には出荷業者がほとんどおらず、御荘・城辺のカツオやビンヨコ等を、地元の業者から頼まれて電話で入札し京都方面に出荷したり、ブリ漁の時期は高知県の須崎・土佐清水・柏島、宮崎県北浦の水揚げを同じく電話で入札し、東京送りで買うこともありました。家族中心の経営から脱皮した今のスタッフで、当時入札を大規模にしていれば、ぼろいもうけがあったでしょうな。そのころ、一時頼まれて新居浜のサワラの出荷を担当したこともありましたが、当時の新居浜では鮮度に対する認識が不十分で、柔らかいサワラをほうりなげたりしてましたんで、漁師の人らに、船に箱と氷を必ず積んで、活きのよさを保つよう指導したりもし、現在は鮮度のよい出荷がなされています。今は、各地に出荷業者が育ってきましたんで、私等も八幡浜の市場の取扱いがほとんどになっています。」

 (エ)生活の変還と今後のあり方

 「ふだんは、5時に起きて市場を見回って水揚げの様子を見ます。せりは、6時から12時の間で6人の買い子がやります。 12時前から、仕分けと積込みを同時進行で行い、従業員や業者のトラックで出荷します。昔のビール箱の時代と違い、トロ箱に軽く積み魚が傷まないように鮮度保持を第一とし、また同一魚種でも魚の大きさによって細かく仕分けます。昔は、トロールの休漁期である夏は暇で、家族で温泉旅行に行ったりもしてました。しかし今のように情報網が発達してくると、漁獲が少なければ少ないなりに、マメアジ(アジの幼生)さえも高く売れ、暇な時期がなくなりました。
 仲買人組合長として、長いこと皆さんのお世話をさせていただきましたが、内海の漁獲量は低落傾向にあるのに、八幡浜市の魚市場の水揚げ・売上げがほぼ横ばいで推移しているのは、やはり仲買人の努力によるところが大きいと思います。しかし、この業界を今後発展させていくためには、やはり若年従業員確保が一番の問題で、そのためにも労働時間の削減、休日の増加を考えていかねばならないでしょう。」

 ウ 仲卸し業者として  

 **さん(八幡浜市南大黒町 昭和11年生まれ 56歳) 仲卸業経営
 「父の代から仲卸業をしていました。仲卸し・出荷業は代々やっている家が多いようです。やはり県内外の取引業者との人間関係が、商売の基本にあるからでしょう。わたしは、18歳(昭和29年)から父を手伝って働き始めました。昔は市外に送るのはほとんど国鉄で、トロ箱に釘を打って、むしろで包んでえぶ札をつけ、フォークリフトもコンベアもないため、積込みはとにかく体力・腕力勝負でした。
 今と違って、当時は出荷業と仲卸業ははっきりと分かれておりませんで、わたしらも京阪神方面への出荷をやってました。県外への出荷は、採算の面から高級魚だけでした。これに対して、周辺地域の小売・行商への仲卸しは安い下魚が中心でしたが、今は高級品が売れる時代になってきております。サザエは、殼ごとのキロ当たり2,000円ほどですが、身だけ取ったらほんの少しです。同じお金でトロ箱一杯の魚が買えるんですから、わたしだったら魚を買うんですが。
 市場の水揚げ高は昔に比べ上がっておりますが、魚を食べるのが減ってきたのと、仲卸しするこの周辺が過疎で人口が減ってきておりますので、仲卸業としての取扱高は若干下がっており、商売としては厳しい面も多いです。卸しの割合は、小売6割、行商4割くらいですが、結婚式場や旅館等の仕入れ担当者が、我々の所に直接買いに来ることも、最近は多くなりました。魚行商は、市内の行商人は6~7人でリヤカー等でやっており、他に野村町・五十崎町・伊方町・三崎町の方から30人ばかり、これは車の行商です。」
 「八幡浜の市場ではトロール漁があるので、時化(しけ)でも魚が切れることがなく、冬場になると松山の小売業者等が直接買いに来ることも多いです。逆に5~8月のトロ休漁期間は魚が少なく、売上げも大きく減ります。水揚げの魚種が非常に多いのも、八幡浜の市場の特徴の一つでしょう。
 仲卸組合長をやっている関係で、県内外の他の市場に見学に行くことも多いですが、他の市場では(取引方法は同じでも)符丁や魚の名前、せりにおける手の出し方が全部違うので、他の市場ですぐやれと言われても、ようやらんですね。せりは、上着を持ち上げて胸元を隠し、そこで指の本数で買取り値段を示します(図表2-3-17参照)。せり人が見て、一番の値を示した仲買業者に(せり上げではなく)、一発高値で落とします。魚の種類によって、何けたの金額か(千円台、百円台等)はわかりますので、3~4回の指の動きで全て決まる訳です。131人の仲買人は全て同じ権利で、どのブロックで取引してもかまいません。毎日の仕入れ量は、得意(とくい)先(小売店)が決まっておるので、そう変わりません。ただ日並(ひなみ)のいい時(大安等)は、結婚式等のあることを考え、多めに仕入れます。この商売を始めてはや40年近くなりますが、今でも毎朝の『てや、てや』の声を聞くと気が引き締まりますね。」

写真2-3-3 八幡浜卸売市場遠景

写真2-3-3 八幡浜卸売市場遠景

平成4年9月撮影

図表2-3‐15① 八幡浜魚市場の構成(平成4年現在)

図表2-3‐15① 八幡浜魚市場の構成(平成4年現在)

「八幡浜市誌(②)」P640、643をもとに一部修正。

図表2-3-15② 八幡浜魚市場買受人扱別状況 昭和60年

図表2-3-15② 八幡浜魚市場買受人扱別状況 昭和60年

「八幡浜市誌(②)」P640、643をもとに一部修正。

図表2-3‐15③ 八幡浜魚市場鮮魚出荷先 昭和60年

図表2-3‐15③ 八幡浜魚市場鮮魚出荷先 昭和60年

「八幡浜市誌(②)」P640、643をもとに一部修正。

図表2-3‐17 せりにおける手の符丁(数)

図表2-3‐17 せりにおける手の符丁(数)