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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)八幡浜の街並みの変貌

 ア 八幡浜市街地の形成

 八幡浜は幕末から現在に至る埋立てによって市街地が形成されてきた。明治4~5年の市街図から、船場(せんば)通り、浜之町、仲之町等の地名の由来がわかるように思われる。このころは、本町通りが町の中心街であった。さらに明治4年(1871年)より7年にかけて、入海の部分が豪商が組織した八幡浜商社によって埋め立てられて新町が生まれ、その後図中の低湿地(一部は元塩田)が埋め立てられていき、明治29年(1896年)に近江屋(おうみや)町、明治35年(1902年)に大黒(だいこく)町ができたのである。大正13年(1924年)商工会発行の『新八幡浜(①)』には、当時の街の雰囲気について、以下の記載がある。
 「海岸の港町・朝汐橋通り・戎(えびす)町付近は商港としての活気がみなぎり、主として海運業者と旅館及び魚類・青物の市場等によってにぎわい、大黒町一帯は郵便局及び小売商人で、寸時の暇もない繁盛を示し、また劇場等ですこぶる陽気である。新町は最も目抜きの場所で街筋も長く、あたかも東京の銀座といった風に美麗であり、本町・須賀之町は、宏壮な邸宅が並んで重々しい気分を出し、堀川町・仲之町付近は料理屋・置屋等で一種のなまめかしさを見せている。また矢野町・大正町は隣2郡へ通じる唯一の出入口に当たり、従って陸上交通の基点をなし、これに伴って、多くの飲食店及び料理屋等が並んでいる。」
 昭和初期と現在の間の大きな変化を見ると、特に現在のJR駅周辺(江戸岡)と国道197号線とつながる昭和通りの発展が著しいことに気づく。これは、新町・大黒町のように港=海上交通を中心に発展してきた八幡浜市街が、昭和14年(1939年)の国鉄八幡浜駅開設と、戦後のモータリゼーションの波の中で、陸上交通に中心が移ってきた表れと言えよう。また、旧港・新港が埋め立てられ市役所・商工会館・公園・運動施設等の公共施設が整備されるとともに、魚市場が大きく整備拡充され出島が造成される等、港周辺の大規模な埋立て・再開発が行われたことも目につく。八幡浜は、いまだに海に向かって発展していく町なのである。

 イ 戦前の街並み

 戦前の市街の雰囲気を、年配の方からの聞き取りにより、以下にたどってみたい。聞き取り者は以下の3名の方である。
 **さん(八幡浜市伸之町 昭和3年生まれ 64歳)元高校教諭・八幡浜市文化財保護委員
 **さん(八幡浜市新町 大正3年生まれ 78歳)時計店経営
 **さん(八幡浜市本町 大正10年生まれ 71歳)米穀店経営
 「わたしの祖父は近江屋の4代目でした。近江屋は宇和島藩の御用商人として発展し、2代目の代には積極的に長崎貿易を行い財産を蓄えたようで、今でも家には当時の舶来品と思われるガラス器等が残っています。本家は本町すじにあり、戦前は古い旧家がずっと残っていました。『本町はしもたや(仕舞屋)ばかりの夜長かな』(菊池本亭作)という句があるくらいで、幕末明治の頃に大活躍した豪商の子孫が、商売を辞めそれまでの財産と土地で生活している旦那衆の町でした。
 新町・矢野町が中心商店街でした。大黒町は卸商が多かったように思います。海望園(かいぼうえん)(市内愛宕山(あたごやま)西斜面)には製蠟(せいろう)所がまだ残って、川の土手ははぜの木ばかりでした。まゆ(蚕)売買所は大変大きなものでした。魚市場は、旧港(現在の商工会館)横にあり、今よりもずっと小さかったですよ。漁港や卸売市場が本格的に発展してきたのは戦後になってからでしょう。かまぼこ業者も、小規模な家内工業が中心でしたね。
 ゴミ集めも馬車で、冬になると近辺の農家から馬車で大量の割木(わりき)を売りに来ており、馬車2杯ぐらい買っていたものです。飲み水は共同井戸で、多くの井戸で水神(すいじん)さんを祭っていました。また、三崎半島からたくさんの牛が引かれて屠殺場に連れていかれる情景が印象深く、今でも覚えています。」
 「新町の裏の堀川町は、置屋(おきや)さんが多く、昼でもよく三味線の音がしてました。稽古事も盛んで、わたしも含め近所の店の娘は皆、三味線やお鼓(つづみ)、謡曲等を習いに行って、その音色が通りにも流れておりました。しかし、お互いに商売上の競争相手が多いですから、新町全体や隣近所で共同でなにかするということは、案外少なかったように思います。」
 「戦前の大店というと、西村さん、清水さん、近江屋さん、井筒屋さんと、呉服店ばかり思いつきます。ただわたしらの小さい頃に仕舞屋さんになっていたところも多いです。本町や浜の町は、そんなけやきの格子戸の豪壮な家が多かったです。ただ、空襲の類焼を防ぐために、戦中の強制家屋疎開で多くの家が取り壊されてしまい、もし残っていれば内子町のように文化財に指定されていただろうにと、残念です。
 わたしどもと親しい**さんは、戦後すぐの時、2万円で千丈(せんじょう)(旧千丈村、八幡浜市東部)の田んぼばかりの土地を買うか、船を買うか迷った末、結局機帆船を購入してしばらく海運業をやられました。今千丈がまったく町中になって土地が暴騰したのを見たら、失敗したとよく笑っておられますが、いまのJR駅前も、昔はじめじめした土地でレンコン畑ばかりでしたが、八幡浜もわたしの生きている間にずいぶん変わったものだと思います。」