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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)峠とくらし

 ア 峠と三瓶町

 (ア)峠

 リアス式海岸の三瓶町は天然の風景に恵まれその意味では住み良い環境であるが、その反面、二つの山系から支脈が伸びて、村や浦と浦との間に立ちふさがり、しかも、急しゅんで海岸まで迫るなどの地理的な悪条件で陸上交通の障害として立ちはだかってきた。そのため、三方山に囲まれた三瓶町はどこへ行くにも峠を越さなければならなかった。その上に、藩政時代は松山~宇和島の本街道から離れていたため特別に整備もされていなかった。ただ、宇和町と津布理を結ぶ道は、年貢米を運ぶ道として重要であった。
 明治になっても、道路の整備もされず、人の往来は徒歩で、荷物の輸送は人力(おいこで背負う、天びん棒で担う)か畜力であった。宇和からは馬の飼育が多かったので馬の背で米その他の物資を、牛の飼育しかしていない三瓶からは牛の背に乗せたり、あるいは引かせたりして運んでいた。現在は県道の開通とともに次第に利用されなくなって往来は困難になっている。
 **さん(三瓶町朝立 大正6年生まれ 75歳)は、祖父から「朝立(あさだつ)から和泉(いずみ)に行くのでも、10回も川を飛び石で渡らねばならなかった。そのために増水の時は渡れない。でも養蚕業のため桑を取りに行かずにはおれず、桑を背負って危険な川を渡っていて命を無くした人もあった。また、山道を登って帰ると夜になってしまい、そうするとオオカミによく出会ったとか。」よく聞いたと語る。
 三瓶村にとって、郡役所のある八幡浜に通ずる幹線道路の開通は、待望久しいものであったが明治33年(1900年)郡役所で、西宇和郡土木費補助規定が決定され、明治44年 (1911年)八幡浜~布喜川(ふきのかわ)~横平(よこひら)~三瓶間の道路が全線改修された。大正4年(1915年)、郡費補助を受けて布喜川~若山~釜ノ倉~谷経由の道路が開かれた。この道は横平経由より勾配もゆるく設計されている。

 (イ)三瓶町の集落の分布

 八幡浜市の南に接する農漁業と工業の町で、昭和30年1月1日に本町と八幡浜市の一部、三島村、二木生(にきぶ)村が合併して現在の三瓶町となる。
 三方山に囲まれた三瓶町の集落は海岸線に沿って形成され、南部の漁村として三島村であった下泊、皆江(みなえ)、蔵貫(くらぬき)、有太刀(あらたち)が点在し、本町であった有網代(あらじろ)、安土(あづち)、津布理(つぶり)、朝立、次いで北西の漁村として、二木生村であった垣生(はぶ)、二及(にぎゅう)、長早(ながはや)、周木(しゅうき)と、朝立川の上流に八幡浜市であった山村形態の和泉、鴫山(しぎやま)の二つの集落がある。朝立は屈曲に富む三瓶湾の最も深い部分に位置し、現在三瓶町の中心地である。

 イ 伊予第一のトンネル

     〝今や東はトリツキに 伊予第一のトンネルを
        穿(うが)ちて宇和の天産を 入るる港も賑(にぎ)はばや〟 三瓶トンネル開通の歌4

 宇和町に通ずる道はカーブの多い路線で、距離を短縮するためには巨額の経費をかけてでも隧道を抜かねばならなかった。そこで、大正6年(1917年)海運に恵まれた三瓶と穀倉宇和平野を結ぶ路線に三瓶トンネルが開通した。三瓶町誌によると、日吉崎(ひよさき)から久勝寺、松ノ木の上を通り、桜谷に出てトンネル経由卯之町に通ずるものであり、これによってしゅん険な山道を越さずに往来できるようになった(⑯)。

 (ア)三瓶トンネル記録

     〝四国一の大工事 三瓶トンネル物語〟記録簿 宇和町郷内 土居弁蔵(*2)
   1 開通 大正6年12月
   2 工費 6万円
   3 延長 316m
   4 幅  4m
   5 高さ 3.9m
   6 場所 東宇和郡郷内

 「大正6年(1917年)県下で初めてのトンネル工事という古い歴史を持った当時としては四国一の大工事であった。
 赤レンガを埋め込んだトンネルはエキゾチックな感じを抱かせる。明治の末から大正にかけて道路の必要性が説かれ、三瓶卯之町線は大正4年着工、並行してトンネル工事が行われたのだが、『こんな広い道付けて何になる。』という反対の声が強く、トンネルも『馬鹿なことをする。』と白い目で見られた。西山田(宇和町)区長二宮米吉さんの努力で工事に掛かれる見通しがついたが、鳥付(とりつき)峠の横を山越えして行き来している人たちには、山を打ち抜いて穴を掘る工事はつまらん事をすると見えたに違いない。入札の際県の考えている6万円では折り合わず揉(も)め抜いたが、三瓶村の宇都宮徳松さん(*3)が『やれん事は無い6万円でやって見せる。』と爆弾宣言をして工事を請け負った。しかし、トンネル工事に経験のある業者は県内にはなかったので、神戸の方から渋谷吾一という人を連れてきて下請けさせた。渋谷さんは、大きな事故を出した生駒トンネル生き残りの勝利者だったが、掘り進むうちにガスが出始め、一日仕事をして半日休むという難工事になった。その内、岩盤が堅くなり『鏨(たがね)と鎚(つち)』の手仕事だけに仕事量が多い割に工事が進まなかった。
 約40人の人夫が昼夜交替の12時間作業で、掘る者、鏨を磨く者、運ぶ者に分かれて大活躍だったという。四国で一番大きい仕事をしているというので大変な張り切り様だったと伝えられている。宇和町郷内の是沢市松さんは、この工事(トンネル掘り)に興味を持ち、これが完成すると柿浦トンネル(宇和島)に出掛けた次第、25年もトンネル掘りに精魂を傾けたというそれほど徹底した職人根性が、43年後の今日でも水漏りが少ないと褒められるほど立派なトンネルを造りあげたという。
 内部は赤レンガの色が埃のため黒ずんでいるが、入り口付近の物は、雨に洗われて山の緑と美しい調和を保っている。
 工事が終わったのは大正6年12月末、地元からあまり歓迎されなかった工事だったので宇和町では細(ささ)やかな落成式が行われた。」
 「三瓶トンネル記録」の最後に宇都宮栄一氏(宇都宮徳松の三男)が当時の思い出を次のように記述している。「三瓶トンネルの開通式は、三瓶町では大変な騒ぎであったと記憶している。知事や他町の官吏が出席されて盛大な開通式が行われ、その祝に小学校児童には赤白のまんじゅうを、そしてトンネル開通の歌を歌って旗行列をした。この時佐々木長治氏の自動車が来た記憶があり、自動車というものを初めて見た。(⑰)」

 (イ)鳥付峠

 **さんは「宇和町や八幡浜へ行くのには4通りの道がありました。例えば宇和町へ行くのは、朴(ほうのき)(三瓶町)部落より山道を、木場口、寺谷、織尾と登ってトンネルを経由して下っていけば、繁栄寺へ出て郷内(宇和町)に通じます。人々は荷物を持って山道を行き来する。三瓶からは、魚の行商に、宇和からは小物(日用品)または、富山の薬屋さんや、山伏が紋付の黒い着物に編笠を被られ尺八吹いて、家々の門前に立たれる。幼いわたしは叔父のいわれるように扇子を8分目開き、その上に御礼包のお銭袋を乗せ、玄関口で丁寧に頭を下げありがとうと御礼をいって渡す。幼き日々の心に残る思い出の一つです。その外に郵便屋さん、呉服屋さん、菓子屋さん、篭屋(かごや)行商人等が峠の道を往来していました。」と語る。
 **さん(三瓶町安土 大正3年生まれ 78歳)は「この安土からは魚の行商が多かったですね。宇和や大洲まで行きよりました。魚屋が担ぎ手を2~3人雇いまして、自分だけではしれたもんですけん。みな天びん棒で担いで行きよりました。これは車ができるまで続いていましたね。みなお得意様がありまして、金にするか、物々交換で魚を米に換えてそれを担いで帰っていたようです。」と語る。

 ウ 明治・昭和初期ころの三瓶

 (ア)三瓶小学校修学旅行(海南新聞明治36年〔1903年〕11月27日付)

 「西宇和郡三瓶尋常高等小学校の高等科生は修学旅行として校長及び教員に引率せられ、来る30日安土港より海路宇和島町に至りて、各学校を参観し、それより吉田町に出て当地尋常高等小学校の学芸品展覧会を見て当地に一宿し宇和町を経て帰校するはず。」

 (イ)第二山下高等女学校遠足(三瓶高校創立50周年沿革史)

 「当時の遠足は文字通りの遠足で、4年生になると姉妹校の吉田第一山下高等女学校を訪問することが儀礼になっていました。トンネルを抜けて宇和を横切り法華津を越えて吉田に入るのですが、道中、路傍の涌き水で喉を潤し、童謡や唱歌のコーラスで元気つけ、一人の落後者もなく吉田につき、ひと休みするとバレーボールの対抗試合をするほどの元気を蓄えていました。しかし、帰りは足をいたわり船に乗ることが楽しみでした。別府航路の上り便に揺られながら、午後3時ころ帰りついたように思います。
 歩くといえば当時の生徒は、穴井、三島、和泉、三木生から4年間というもの雨の日も風の日も一日の休みもなく歩き通し、飯の山を越える穴井の方や、海岸を下泊から通われた方たちは、雨や雪の日は腰から下がびっしょり濡(ぬ)れて、見るも痛々しく当時の人たちはよく頑張ったと思います。(⑱)」

 エ 受け継がれた海人の血(二及)

 (ア)二及海運業の草分け

 明治14年(1881年)春ころ植田市九郎は24歳の若さで日本式帆船大黒丸を操縦し日向の油津を根拠として運輸業を始めた。明治21年(1888年)には西洋式帆船第一号幸徳丸(千石積)、明治29年(1896年)に第二号幸徳丸、明治35年(1902年)に第三号幸徳丸を建造し、実弟卯吉、仙松の三兄弟で土佐の須崎から九州並びに伊予の南部の各港へ、遠くは阪神地方へ販路を拡張し海運界に雄飛した。当時の荷物は米、海産物、材木などが主で朝鮮からは海産物が主であったようである。第一号幸徳丸の船底には銅板をはり、玄米のバラ積みが出来る優秀船であって、白塗りの船体に白い帆を張って御手洗(みたらひ)の松並木の間より入港する姿は、本当に美しかったと当時をしっている古老は語ってくれた。しかし、これらの優秀船も波風まかせ帆まかせに操縦しなければならなかったので、特に天候異変の時等の苦労は想像にあまりあるものがある。また、当時の乗組員は千石船で3~4名くらいで昔は初めて船に乗るものは、飯炊きより鍛えあげて船長になるのが習慣となっていたようである。
 **さん(三瓶町二及 大正6年生まれ 75歳)は、「植田家一門も順風満帆とはいかず、明治42年(1909年)8月4日の台風に土佐須崎を出港した後、一隻は行方不明、一隻は下関で座礁、一隻は明石海峡で遭難して船長植田卯吉他3名が死亡するという大きな犠牲をだしました。しかし、かかる犠牲や努力の上に二及の海運業界は、子や孫に受け継がれて今日の隆盛を見るに至ったと思います。明治時代における二及の海運業を語るとき植田市九郎さんを忘れることはできません。草分的存在として認めることは誰も異論はないと思いますよ。」と語る。
 昭和13年(1938年)に二及において初めて機帆船を建造した。この船の発注者は植田市九郎の子供である植田利夫であり、造った人は**さんの父親で初代船長は植田鶴造であった。船名は光洋丸(150t)この船にかかわる人々は皆海運に関係ある方々であり、血は流れていたのである。

 (イ)不況何のその

 「三瓶町誌」によると、昭和28年ころより油の国内輸送が盛んになりつつあった。昭和32年1月**さんは山下運輸株式会社を設立、同年三瓶町で初めての鋼船タンカー第一鶴山(かくさん)丸(250t)を建造しタンカー業界へ進出していった。ここで三瓶の海運界に幸いしたことは、機帆船がほとんど貨物船であったのに対し油専用のタンカーにしていたことである。このお陰で貨物船の不況が長く続くのにもかかわらずうまく乗り切ることが出来た。この先鞭(べん)をつけたのは**さんであると記述しているが(⑯)、当時の模様を「わたしははじめ八幡浜を主体にしてやっておりましたが、その後宇和島へでて木材を主体に積んで東京へ輸送するという態勢をつくりました。しかし、行きに木材を積んでいきますが、帰りはカラでしょう。何かと思っていた時にドラムカンに詰めた油があったのです。当時漁船を改造したタンカー船がちょくちょくおりまして、その人たちから『忙しいがもうかるよ。』と聞きまして、これだと考えて早速ドラムカンの輸送を扱っている鶴見輸送(三菱石油の輸送部門を担当している会社)へお願いをしました。そして昭和32年1月ころだったと思いますが、山下運輸という法人組織にして、古船を改造し、鶴見輸送の鶴とわたしの山を取って『第一鶴山丸』と名付け、油を輸送するタンカー船をこしらえたのです。この地域では初めてのタンカー船だと思います。これがうまく当たりまして面白いほどもうけました。機帆船をやっている同業者たちも次々とタンカーに切り替え、三瓶ではお百姓さんたちは鉄の船をみれば、すべてタンカーと言っていたのですよ。」と語る。また、「三瓶町誌」によると、**さんは40年6月「第三いずみ丸」を建造しプロパンガスの輸送に先鞭をつけて不況を乗り切ると記述してあるが(⑯)、このことについて「日本ガスラインという会社が松山にあり、そこの社長さんから、『父が岩谷産業(東京のガス会社)にコネがあり、そこから、今はガスを陸上で輸送しているが、今後はどんどんガスの需要が多くなるので、船で輸送することが必ず必要になってくるという情報を得て、どうか一緒にやらないか。』ということで、共同で『第三いずみ丸』を建造し始めたのです。」と語る。このように新しいものに次々と挑戦したことは本人の努力はもちろんのこと、同時に回りに常に新しい情報を伝えてくれる人たちがいたということである。

 (ウ)留守家族に福音を

 「三瓶町誌」によると、昭和36年協同組合設立の折に無線通信局の運営を盛り込んだ時の理事長の先見の明は、同年10月みかめ無線局にして実を結び、港に着くまで海上で通信の手段のなかった留守家族や荷主たちに大きな福音をもたらした。これにより内航船の運航実績は一段と上がり、経済性も一層高められたと記述している(⑯)。このことについて「大変船舶の通信に関心のある、当時三瓶漁業無線局の局長さんから、機帆船の組合長を永くしておられた大先輩に、当時の漁船は出港してしまったら、港へ入るまでに何にも連絡する機関がありません。実はこのような機械を取り付けたら、いつでも通信できるのだが、ひとつ郵政省の方に申請したらどうかと話を持ってきていただき、それではと計画して申請してから約1年後にやっと許可がおりました。当時皆さんは半信半疑でしたので、まずわたしの船「第三鶴山丸」に取り付けました。いつでも、どこからでも留守家族に連絡が取れ、これは便利だとみんなにも分かってもらい、一時は400隻も加入してもらっていました。この名残で今でも内航無線局がありますが、今では無線電話になっております。」と語る。


*2 昭和39年宇和屋さんが清書したときこれを写す。
*3 **さんの義父で三瓶村議会議長