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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)きらきら三崎

     〝うみ やま こころ きらきら 三崎〟 三崎町のキャッチフレーズ

 ア 頂上線(メロディーライン)の開通と住民の声

 国道197号は、高知市を起点として四国西南部を通過し大分市を終点とする延長270.8kmに及ぶ路線で、四国西南部地域と九州中部を結ぶ唯一の幹線道路である。また、それは、岬半島を縦貫してこの地域を八幡浜、大洲市さらには県都松山市と結ぶ地域幹線道路でもある。
 佐田岬半島部分におけるこの道路の改築工事は、昭和41年度から調査を開始し、45年度の着工以来、410億円をかけて昭和62年に完成。ほぼ全線にわたって旧道を離れた短縮ルートをとって施工されており頂上線と呼ばれる。この計画線が選定されたのは、「愛媛県史」によると、現道が海と山とに囲まれた、狭小な平地に密集する人家の間と地すべり地帯を通り、また、人家のない所は、切り立った山が海に迫るなどの悪条件が累積するため、現道を改策対象とすることは適当でないと判断され、佐田岬半島の山頂付近を縦走するスカイラインルートに決定された(⑭)。これにより、トンネルが大峠トンネル(1,081m)外20か所で延長8.1km計画され、総計画延長35.3km(外に県施工済3.0km)となり、旧道と比較してこれまでの海岸沿いの道路54.4kmが38.9kmに、時間的にも110分から50分に短縮された。
 この路線は、道路幅員の狭さ、路面整備の遅れに加えて風雨による地盤のゆるみや崩壊の危険がたえず、伊予鉄道㈱運転士安全心得(昭和38年)にも「佐田岬全路線は風雨雪注意報がでた場合時速20km以下で注意運行をし、大雨、大雪は運行休止、また、満潮時に当たる運行も停止。」と記述されていた。つまり、この地域は最も運行制限の強い「注意路線」となっていたのである。
 国道197号頂上線全線開通(愛称メロディーライン)によって「酷道イクナ線」から立派な頂上線が貫通して、左に宇和海、右に伊予灘と二つの海を見ながらの頂上線は、まさに天下に類のない風景であり、地元の観光活性化に役立つものと期待されている。62年12月5日から伊予鉄道の松山~三崎特急バスが一日三往復運行されている。しかし、主要集落は沿岸にあり、集落から沿道の距離は大で、スピード優先の時代に取り残された感が深い。今後取り付け道路の建設が重要課題である。
 愛媛新聞(昭和62年12月5日付)には、〝半島新時代〟の幕開けとして次のように記述している。
 「地域住民の待ちに待った国道197号頂上線の全線開通を迎えた4日佐田岬半島は祭りムードに酔いしれた。〝突端の町〟西宇和郡三崎町の喜びはひとしお。フェリー乗り場の前の広場には大漁旗、万国旗が飾られ千人の町民が集まった。開通式典会場(瀬戸町塩成の堀切大橋)から来た車のパレードを日の丸の小旗を打ち振って出迎え、アーチにつるしたクス玉が割られると大歓声。唐シシが威勢のよい大鼓の音をバックに舞い踊った。祝いのもちがつかれ、ミカンと共に景気よく配られた。
 また、トンネルや橋に親しまれる工夫をしている。トンネル出入口の形を変えるのと表面処理がその一つ。階段を作ってサツキを植え込んだトンネルは〝切り口〟が斜めだ。ナポレオン・ハットそっくりな入り口は微笑みを誘う。
 孫をおぶったおばあさんは『やっと道がついた感じ、もう陸の孤島と言われなくてすむ。』と声を弾ませた。菊池町長も『待ち望んだ道が立派に出来た。これを十分に活用して、町活性化の施策を考え、取り組みたい。』と笑みを浮かべて話した。堀切大橋の渡り初めの大役は、地元の瀬戸町三机木村勇さん(80)、マスエさん(77)ら三組の三世代夫婦がつとめた。羽織はかま姿に正装した木村さんはやや緊張した面持ちだったが『ここに橋が架かるなんて思いもよらなかった。若いものは次々と都会へ出ていっているが、道の開通を機に何とかにぎやかな活気のある町に戻ってくれれば……。』と感想をもらしていた。」
 **さんは、「頂上線の開通によって、各町の活性化が期待されるが、経済基盤の弱い地域であるから観光開発に着目せざるを得ないであろう。また、この半島は、九州への架け橋であるという宿命を持っている。陸の孤島の脱却を図るには、道路の整備が先決であることは論を待つまでもない。しかし、この地域の人々の心に潤いと活力が生まれてこそ、陸の孤島の脱却が図れるのではなかろうか。潤いと活力を生むには、この地域に、新しい文化を育てることである。どのような文化を根付かせるかは、今後の大きな課題であろう。」と語る。
 「シンポジウム87あすの佐田岬半島」(昭和62年11月26日三崎高校にて開催)の記念講演で、映画監督の羽仁進氏は、「開発は多様性を考えて、それぞれの地域の人たちのユニークな力が生まれてこなければならない。また、佐田岬は特色のある所。バスに乗って走る楽しみもいいが、自然が味わえ、人間を見直せられる場を考えてはどうか。地域の人々は楽しい思い出、つらい思い出、さまざまに残っているだろう。生の声が、訪れる人に聞かれるようにしてほしい。人間を見直す時代では、アブリシエートが必要。よさを認める、鑑賞するとの意味だ。まず相手を理解する、相手のよさを知った上で受け入れること。アブリシエーションがなければ、文化とは言えない。」と語っている。

 イ 頂上線と国道九四フェリー

 「国道九四フェリーは、真っ直ぐにのびる弾丸道路が三崎半島の尾根に完成すれば、大阪経済圏と北九州経済圏を直結するルートが新しく生まれ、交流するトラックが絶え間なく走り、四国観光の客を乗せたバス、乗用車の乗り入れも実現するはずである。」これは昭和40年1月1日付の愛媛新聞の記事である。この期待にこたえるかのように国道九四フェリーの利用客は、頂上線開通の昭和62年以降急増してきた。三崎営業所長は「佐賀関~三崎港航路は昭和44年4月に開設され、九州~四国を結ぶ最短航路として旅客輸送、物流の一翼を担ってきましたが、国道197号線の改良、とりわけ昭和62年12月の八幡浜~三崎間、佐田岬メロディーラインの開通による利便(速さと安さ)と平成元年3月からの増便(3便から4便に)、平成2年2月からの「ニュー豊予」就航により、航送自動車台数、旅客数とも有り難いことに順調に増加し、当航路に対する期待と社会的使命を痛感しております。」と語る。時間に追われる職業ドライバーにとっても、便数の多い三崎港発のフェリーは貴重な存在。比較的安い運賃も事業者に受けがよく、人気に衰えはない。乗船中の一時間余りは、長距離運転を続けるドライバーがほっと一息つける大切な時間ともなっている。公団から民営に変わった昭和63年当時と現在を比較すると貨物は2倍増、バスは約6~7倍増になっており、平成3年から4便が6便に増便されている。
 三崎町の旅館経営者が「三崎を訪れた人々がよく、メロディーラインの眺望はすばらしかったが、帰りもまた車ではそっけない。帰りは船でゆっくりと入り江に富んだリアス式海岸、風光明媚(めいび)な景観を眺めたいと語るお客さんが多いですよ。」と語ったが今後の大きな課題である。

 ウ 第二国土軸構想

 第二国土軸構想の具体化が新たな課題として浮上し、将来は九四海底トンネルによって九州と直結され、東の本四連絡橋と結んで、西日本の幹線ルートとなる可能性を秘めている(⑮)。
 岬13里には、今、新しい歴史の幕開けを感じる。時代の流れとともに、「船」から「クルマ」へとくらしも姿も変わった。しかし、近代化の波にさらされながらも、遠い昔からその地域には、脈々と続き、現代に至るまで流れているものもある。「シンポジウム87」で朗読された「あのはしをわたって」という三崎町串小学校1年生の作文のなかにもそれを伺うことが出来る。車に弱いおじいちゃんへのいたわりの心、新しい道が出来るとその心配がなくなること、松山、八幡浜、宇和島へ家族そろって買物に行く計画など。が書かれており、その優しさは、まちがいなく岬の人情が受け継がれていることを示している。だれよりも生まれた岬を愛し、だれよりも生まれた土地を慕う岬に住む人たちの胸には、あたたかい人情が今も脈うって生き続けている。その地域の誇りを呼び起こすべく住民が一丸となってこそ、未来への創造が生まれる。