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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)「船」から「クルマ」へ

 ア 阪神・九州との連絡

 三崎町は、九州との交流拠点として、人々の定住と往来が行われていたらしく、これらは、九州姫島産の黒曜石のやじりや弥生中期の土器などの出土品からもうかがえる。
 明治4年(1871年)12月当時大阪~関門間を運航していた汽船舞鶴丸が1か月3便三津浜に寄港するようになった。これが県内への定期船寄港の始まりとされている。
 明治17年(1884年)に大阪商船が設立されて以後、同社の大阪~宇和島航路によって県内諸港(今治・三津浜・長浜・八幡浜など)への寄港が本格化した。この定期航路の開設は当時の県民とくに宇和島では歓喜の声をあげてこれを迎えた。しかし、大阪商船の貨客に対する横暴な態度(運賃は高く、船員の役人きどりなど)に反感を持ち、これに対抗するために、明治17年12月宇和島運輸会社が創設され、明治18年(1885年)第一宇和島丸(木船143t)が就航した。寄港地は、宇和島出港の後、吉田、八幡浜、川之石を経由して大分県に渡り、佐賀関、大分、別府、日出(ひじ)へ寄港の後、瀬戸内海を車行、長浜、三津浜、今治、多度津、高松を経て、大阪に至るもので、一往復が平均8日というノンビリしたもの。運賃は宇和島~大阪間3等食事付きで1円20銭であったと言われている。両者はこの後、激烈な運賃値下げ、貨客争奪競争に明け暮れ、料金の値下げが繰り返され行き詰まると、てぬぐいが一本ずつでた。次は船内食の〝おかず〟が高価になり、最後には寝酒まで出たという。明治40年(1907年)に交互に配船することになり競争はやんだ。
 明治44年(1911年)に、同社で宇和島~日出航路を開設した。これは宇和島、吉田、三瓶、八幡浜、川之石、塩成、三崎経由で大分県に至る航路で、大阪~宇和島航路の九州回り廃止にかわって四国~九州間の連絡を図るものであった。四国・九州連絡航路としては、この外に、明治29年(1896年)南宇和郡平城に設立された南予運輸が小筑紫~佐伯航路を運航していた。同航路は、高知県小筑紫より宿毛、船越、深浦、平城、魚神山(ながみやま)、岩松、宇和島、穴井、川之石、塩成、三崎、串、佐賀関、臼杵に至るもので九州連絡の航路であるとともに、南予諸島を結ぶ沿岸航路の役割を兼ねるものであった。このようにして、阪神・九州連絡船が三崎へ寄港するようになったが、しかし、「三崎町誌」によると、大正9年(1920年)1月に豊予間の連絡船が三崎へ寄港しなくなり、そのため地元の有志が集い、同年10月三崎汽船株式会社を設立し、船舶の運航を計画した。三崎汽船会社の設立は大阪商船の三崎寄港によって実現するに至らなかったが、この設立運動が大阪商船の三崎寄港を促進したと記述している(⑧)。
 **さん(三崎町三崎 大正3年生まれ 78歳)は、別府航路について「別府あたりはここはどうしたって距離的に近いし相当の利用がありました。農閑期には、みんなよく湯治に行く湯治に行くといって別府へ行くのが一つの楽しみでした。こちらからでた人で、あちらで旅館を経営している人が何軒かありまして、そこで自炊をしながら10~20日位、長い人で1か月。湯に入ったり、ときには芝居を見に行っていたようです。わたしも子供の頃おばあさんに連れられて夏休みに行ったことがあります。当時の別府航路は『宇和島丸』その後『鶴島丸』、『繁久丸』で、一日に二つの会社で2往復していました。」と語る。

 イ 昭和初期ころの三崎

     〝三崎半島にも時世の風が吹く
          百姓家への嫁入りを嫌う〟
 海南新聞(昭和4年〔1929年〕3月8日付)に、「三崎半島は交通不便な土地として外部との交渉も少なく、別天地とせられていたがその三机村から三崎村あたりにも、最近は各都市へ出入りするもの多くあり、特にカフェーの女給などに出向いて、村に帰って来る時極めてハデな中には断髪などして帰って来る女もあるようになり、村はだんだん都にあこがれるものが多くなって最近では村の娘が牛を飼っているところへは嫁入りを嫌うようになったという。牛のおる所は百姓家であるからだというのである。これは斎藤内務部長が三崎半島視察の際、村長さんたちが報告した実話である。」と記述している。

  佐田岬の印象

 中村元治氏が海南新聞に6回にわたって書いている。その中から一部を紹介すると、
 その1に「文化から取り残された、がけ道ばかりの馬の背みたいな半島ですと、私は川之石から三崎までのんきな旅行を続けた後で友人に書いてやりました。私の考えていた以上に、原始的な詩の国であり、夢の国であったのが何よりも嬉しかったです。」
 その3に「長い間歩いた後やっと三机の佐野に出ました。入海に向かった崖に散在している村里です。電気が、まだ取り付けられていない位のところです。区長さんを尋ねると『お湯に行きましたから一寸お待ちください。』といって、子供が迎えにいってくれました。後で聞いて見ると、二つ位小さな尾根を越した向ふの家に行っていたのでした。水に不自由なこの地域の人々は、毎日水汲みのために、石ころの急坂を幾度ものぼり降りしなければならないのです。」
 その6に「橙(だいだい)の実が雨にぬれてきれいに光っています。三崎村を囲んだ山はみんな橙畑で黄色く輝いていました。メリケの傑作『ブラーグヘゆくモッァールト』を思い出し南国の情緒に陶酔しました。
 夜更けて別府行きは強風のため欠航だというので、午前3時再び歩いて八幡浜へ帰ることになり、着いたのは翌日でした。(⑨)」

 ウ 浦々を結ぶ渡海船

 浦々を結ぶ平坦道路の少ないこの地方では、人々の往来や物資の輸送は必然的に船が利用された。沿岸航路は早くから開かれていたが、初期のものは定期便ではなく、いわゆる「渡海船」と称する不定期貨客船が近隣の沿岸を往来した。はじめは、帆船であったが漸次機帆船(木造帆船に焼玉機関を装備した船)に移行した。
 「伊方町誌」によると、伊方町小中浦(こなかうら)の渡辺紋治が明治25年(1892年)に八幡浜通いの渡海船を始めている(⑩)。次いで、明治28年(1895年)中妻弥七(川之石宇和紡績勤務)が、三崎~八幡浜間の三崎航路を思い立ち、小さな船で開業した。これは八幡浜を出港の後川之石、伊方、大久(おおく)など佐田岬半島の各浦々を寄港しながら三崎へ至る沿岸航路であった。その後、明治36年(1903年)宇和島運輸汽船「品海丸」によって三崎~八幡浜間に本格的な定期航路の運航が開始された。寄港地は、三崎、井野浦、名取、大久、川之浜、加周(かしゅう)、九町(くちょう)、伊方、川之石、八幡浜の順であった。この頃になると、汽船による航路は急速に発達し地元町村側も積極的で、西宇和郡会は航路補助費の支出を決めている。
 これ以降佐田岬半島沿岸航路を希望する汽船が続出し、急速に発展した。明治44年(1911年)に宇和島運輸が三瓶~名取間に、大正6年(1917年)には青木運輸が「繁久丸」を三瓶~八幡浜~別府間に、その翌年八幡浜運輸が三崎~八幡浜間に「八幡丸」を新しく就航させた。その時乗客は一日平均150人に及び、日用雑貨も運ばれたという。こうして新しい航路の登場が相次ぎ、佐田岬沿岸航路の華やかな時代を迎え、これが昭和の初めころまで続いた。

 (ア)三つどもえの競争

 昭和4年(1929年)宇和島運輸が「第10鶴島丸」で宇和島~八幡浜~別府航路を開始したことによって、これまでに同航路には先述したように、八幡浜運輸の「八幡丸」、青木運輸の「繁久丸」が開設されており、この三社による三つどもえの競争。とくに青木運輸と宇和島運輸が激しい競争を展開して八幡浜~別府の三等運賃を10銭まで切り下げた。
 このころ八幡浜の物価は、銭湯が3銭、理髪料が並で50銭というところだった。10銭というのは均一料金だったので八幡浜の隣の川之石へ行くのも、別府へ行くのも同じ10銭である。時間にゆとりのある人は競って10銭の方に乗った。そのため「第10鶴島丸」は毎日満員の盛況だった。
 宇和島運輸で10銭だったのは、朝10時半に八幡浜を出、夕方の5時に別府へ着く、青木運輸と同じ時間帯の沿岸航路の1便だけで、他の例えば、夕方出港する「第14宇和島丸」は1円25銭であった。また、八幡浜~三崎間の「八幡丸」は60銭だったが、たまらず30銭まで下げた。この競争も、昭和8年(1933年)頃両者共疲れてしまい、いずれからともなく手を引いて終わったといわれている(⑪)。

 (イ)串~三崎間の渡海船

 この地方は浦々を結ぶ平坦道路が少ないためバスが通っていない。そのため、人々の往来や物資の輸送は必然的に船が利用され、湾内航路として「三正丸」が三崎~井野浦~串~正野間に、その後「きくまる」が串~三崎間に地域の人たちにとっては、なくてはならない渡海船として親しまれてきた。**さん(三崎町串 昭和3年生まれ 64歳)は、学校卒業後父親(昭和17年ころから旅客船開業)の手伝いをし、昭和29年には串~三崎間の渡海船として、**氏経営の「きくまる」が就航し、その船長として廃止になる昭和50年5月31日までの21年間地元のために活躍した。昭和25年頃は、お客さんが中心で、郵便物や配給米なども運んだが、物より人が中心であった。当時一日2回、片道40分、料金は10~20円位。その後年々利用客も多くなり40年~45年ころが最盛期。夏休みには佐田岬灯台へも一日3回行くようになったが積み残しがあるくらい盛況だったようである。**さんは忘れられない思い出として「毎日毎日休まずにお客さんを運ばないけんということが、気持ちの上で相当疲れました。特に、台風とかで海が荒れた時なんかは、お客さんの安全ということを考えて気を遣い心配したもんです。ほんでも、お客さんと一緒に写真を撮ったり、お礼の手紙をもろたりお客さんに喜んでもらえるとうれしいもんでした。ある時、灯台のスケッチをしとった学生さんが崖から落ちたのを救助し、感謝状や手紙をいただいたことも忘れられん思い出です。なんやかんやいうても、一番うれしいのは〝無事故〟で終えたことです。」と語る。
 当時三崎高校生として「きくまる」で通学していた三崎町正野の**さんは、「きくまる」の思い出を「三崎高校創立40周年記念誌」に次のように記述している。
 「私は正野出身で、高校時代は船で通学していました。この渡海船は、串・正野の人にとっては、岬以東に行く大切な交通手段でした。朝の便は、毎日病院へ行くぢいちゃん、ばあちゃん、三崎・八幡浜方面へ買物に行く人そして三崎高校生で、いつもにぎやかでした。しかも、ほとんどの人が顔見知りで、大人の人にとっては、船の中での会話も楽しみなものであったのではないでしょうか。そして、天気のいい日には、女子生徒は、客室の(外)に座って、平凡や明星の歌本を開いて、楽しそうに港に着くまで歌ったりしていました。しかし、波の荒い日は、みんなが船室に入っていましたが、大きな波がくるたびに、横に大きく揺れるので、女子生徒はそのたびに『キャー』といい、おもしろいというのかスリルがあるというのか、でも、やはりにぎやかでした。このように、高校時代を船で通学できたことは、今の高校生が味わうことができない貴重な体験であったように思います。(⑫)」
 地元の人に愛されてきた「きくまる」も、道路が次第に改良され、自家用車が増えてくるにつれて利用客が少なくなり、地元の人に惜しまれながら廃止された。今は、男子は自転車、女子はマイクロバスで通学している。

 (ウ)はしけの思い出

 三崎~八幡浜間には、親船から別れて、はしけで三崎町に人および日常雑貨等をはこぶ光景がみられた。**さんは当時の思い出を「学校を出てから親父の仕事(回漕店)を手伝い、昭和25年ころまで砂浜のため今のような岸壁がなかったので、はしけで荷物の上げ下ろしをしていました。三崎の生活必需品90%位の荷物を「繁久丸」、「鶴島丸」、「八幡丸」で運んでいたが、繁久丸やめ、鶴島丸もやめ、八幡丸だけが最後に残り、三崎の荷物ほとんどを運んでいた。そのため荷物が多くて、わたしのところのはしけには、一度には積みきれず、2~3度往復して砂浜を一日に何百回も荷物を担いで運びました。そのために耳にタコができ今でもこのように残っています。この仕事で忘れることができないのは、若いとき、伝馬船で櫓を漕いで人や荷物を運ぶのに、風の強い時には泣かされたことです。風に押し流されて港へ入れず港の外のお宮の下の方へ流されるし、乗客の方にもしぶきがかかりますし、悪いと思うのやけんど、どうしようもないのです。この時が一番つらかったです。でも、使命感といいますか、三崎のすべての荷物を扱っているという、そういうものに対する誇りがありました。」と語る。
 また、**さん(三崎町井野浦 明治43年生まれ 82歳)は仕事の思い出として「少年時代の魚、エビなどの買受け。はえなわ関係は朝、釣関係は夕方から時には夜遅くなることもあった。夜の9時・10時、寒い冬の夜など伝馬船で出てランプの明かりで買受け生け簀(す)に入れる。活魚を締めて氷詰めにした魚を、夜半三崎まで持っていく。伝馬船で往復2時間あまり、今のように車はないのですべて船か陸路を徒歩で運ばねばならなかった。」と語る。

 (エ)正野・串での生活の思い出

 この地区で昭和30年ころ教員生活をしていた**さん(保内町宮内 昭和4年生まれ 62歳)は「当時の生活で苦しかったことは、出張や病気などの時でした。保内町・八幡浜市方面への出張の時は、別府航路の定期船では開催時刻に間に合わないので、三崎~八幡浜航路の定期船に乗船するため、夜間の午前2時から三崎港まで約3時間かけて曲がりくねった細い山道を歩かなければなりませんでした。急病の時は、漁船に依頼して三崎港まで行かなければなりませんでした。海が荒れた時は、大変な苦労でした。
 一方、当時の楽しみは、祭り・お盆・お正月などでした。年間5~6回の映画を観ることと、年間1回の春芝居も楽しみの一つでした。春芝居は、2・3日と続く時もありました。この日は、休業日にして家族そろって見物しました。また、学芸会と運動会は、学校と地域が一体化した行事になっておりました。地域の方々の積極的な協力は、今も脳裏に焼き付いております。」と語る。

 エ ウワテ(伊予灘側)とシタテ(宇和海側)の交流

 (ア) 雑貨商の思い出

 この半島には雑貨商が多い。交通不便な土地柄から流通機構の遅れもあって、よろず仕込みの商法がもてはやされるのである。雑貨商を営んでいた**さん(三崎町松 大正5年生まれ 76歳)は「商品は八幡浜から機帆船で前の浜へ運ばれていました。でも、冬場は海が荒れるので船がつけられず、三崎まで4~5kmもある道を、当時はまだよい道路ができておらず、酒とかしょうゆなど重い荷物をオイコにあて背中にかるい、山道を越えねばならないので、並々の苦労ではなかった。一箱10本入りの酒がかるえず、子供を連れていき2本ずつ分けて運んでくれたこともしばしばでした。今思えばよくやってきたものだと思います。」と語る。

 (イ)八幡浜まで延長されて

 昭和14年(1939年)2月6日に国鉄予讃線が八幡浜まで延長されたことは、沿岸航路の姿を次第に変ぼうさせた。天候、風波に比較的支配されにくい陸路が海路に変わるのは自然の成り行きであり、盛んであった伊予灘側の沿岸航路も次第に衰微して定期航路は皆無となった。これまでは、伊方町や瀬戸町の宇和海側の人は、松山、中国、阪神方面への往来は、もっぱら半島を越えて伊予灘側の二名津、三机、大成(おおなる)、九町越などから乗下船するのが常であったが、今後は、ウワテのひとたちが山越えをしてシタテに出てくるようになった。このことについて**さんは「ウワテの人が八幡浜へでるときは名取かここ三崎まで出てこなくてはいけなくなった。そういう関係でウワテの人には知人が多く、別府から下り便がここに着くのは夜中になるので、わたしの家に泊まって船に乗る人が何人がありましたよ。」と語る。また、ここから宇和海側の各集落を結ぶ定期船を利用して八幡浜へ、そこから汽車で松山、阪神方面へ。八幡浜まで来れば、風波の影響もなく、しかも、船よりはるかに短時間で松山、阪神方面へ連絡できるのである。
 当時町民の生活必需品特に「米」は、郡中米の名で盛んに輸入が行われていたが、しかし、伊予灘側の沿岸航路の衰微とともに、町民の生活必需品の輸入も郡中方面から八幡浜方面へと次第に移り変わってきた。

 (ウ)僻地が何だ

 伊予灘側の平磯から宇和海側の高校まで往復16km、二つの峠のウサギ道を越えていく、この地方は風が強いので雨の日は、山はだぞいに下から降ってくる。「スネから下はびっしょりですよ。」と語る三崎高校3年生**君は、三崎高校弁論大会で「僻地が何だ」と意気高く三崎の子の根性を披露した。このことが愛媛新聞に次のように記述してある。
 「ある保護者が進学するわが子に『八高が自信なけりゃ三崎高校へでもいけや。』というのを耳にした。何という寂しい事実だろう。これは当の一生徒の保護者にとどまらず、わが三崎高校全生徒、三崎高校全保護者が持つ、ある程度共通した傾向ではないだろうかと想像する。他校に対する生徒、保護者の持つ劣等感はどんな原因、理由によるものか。三崎高校の歴史が浅いためか、中学校時代の上位の生徒があまり三崎高校に進学しなかったためか、もちろんこれらも理由の一つではあろうが、もっと根本的なことは、わが三崎高校生一人一人が持っている心、保護者一般の人が持っている心、つまり、僻地の名に甘んじた、なかばあきらめ的な心ではないだろうか。今もし私たちが僻地の名に甘んじたなら、どのような将来が約束されるだろう。僻地だからこそ発展性があり、夢があり、僻地だからこそ静かに勉学にいそしまなければならないのではないか。私は日本のどこよりも三崎を愛し、三崎町のどこよりも自分の部落平磯を愛することに誇りを持っている。この地域性を超越した郷土愛に徹することこそ、三崎高校生としての誇りではないだろうか。『僻地が何だ、やれば出来るんだ。』という自信と勇気を忘れないで欲しい。」と訴えた。親子共々考えたいものだ(昭和40年1月24日付)。

 オ 道路の改良と車社会

 この地方の沿岸航路の盛衰に大きな影響を与えたのは道路の改良・普及であった。西宇和郡議会は下のように郡内道路の整備に乗り出し幾多の困難を克服して、ようやく昭和33年に県道八幡浜~三崎線が全線開通されたのである。

   大正8年(1919年)道路法の公布
   大正9年(1920年)八幡浜~三崎線が郡道に認定
   大正12年(1923年)郡制廃止にともない県道に移管
   昭和3年(1928年)愛媛県議会で三崎半島梯形道路計画が決議され八幡浜~三崎が県道甲号線に

 その後、昭和37年にはこの路線は、2級国道大分・大洲線と認定され、のちに国道197号線と改称された。
 このような道路の改良とともに、昭和23年(1948年)7月に伊予鉄の定期バス路線が港浦(伊方町)まで開通し、昭和26年に三机、34年10月には三崎まで路線の延長が実現し、ここに佐田岬半島縦貫バス路線が開通した。こうして佐田岬半島にもようやく陸上交通に新しい時代が訪れ、いままで時化とか台風時には、不便をかこっていた三崎の人々の足の便は陸海両用となり、あまり天候のことを心配する必要がなくなった。三崎~二名津の間には定期のバス路線があって町民の足として利用された。

 (ア)バス開通の喜び

 愛媛新聞(昭和34年10月12日付)に、当時の地元の喜びを次のように記述している。
     〝三崎13里に夢走る 早速40人がバス通 進学希望者も増える〟
 「八幡浜と西宇和郡三崎町を結ぶ伊予鉄バスが、6日から臨時運行を始めていたが、11日から開通した。地元ではこれで陸の孤島という汚名を返上できると喜びにわいている。昔は海上連絡しかなく、八幡浜に出るには徒歩で一昼夜以上かかり、ワラジも2~3足はきつぶしたという。三崎13里の難所に、昨年やっと幅員4.5m長さ49kmの立派な県道が完成、宇和島自動車と競願のすえ八幡浜から瀬戸町大久まで運行していた伊予鉄バスが、こんど路線を延長して三崎まで乗り入れたもの。
 この三崎半島縦貫路線は、宇和海銀座や国立公園地帯、夏かん園のすばらしい景色を、次々にパノラマのようにくりひろげられ船旅とはまた違った趣きがあると人気は上々、また、いままでは台風のたびに定期船の欠航、文字通り陸の孤島の悩みをかこっていた三崎の人たちも『バスが走るなんてまるで夢のようじゃ。』と大喜びで子供たちもバスが通るたびに手を振ったり、物珍しそうにバスを取り囲むありさま。そしていままで三机や神松名(かんまつな)地区から山越えして歩いて通学していた県立三崎高校の生徒たちも、伊予鉄バスが三崎~二名津間を朝晩四往復することになったので大助かり、早速40人がバス通学することになった。バス開通のお陰で来年度は高校進学希望者が更に増えるだろうと学校当局も喜んでいる。なお三崎~二名津間の所要時間は23分。」
 一方三崎以西の岬端の地域では1km未満の山道が多く、いまだに手漕(てこ)ぎ船や、小型のポンポン船を利用しなければならなかった。先述したように宇和海側では、三崎までは集落を結ぶ路線が急速に発達したが三崎以西と伊予灘側は依然として取り残された。

 (イ)串(西部地区)での生活の思い出

 **さん(三崎町串 昭和6年生まれ 61歳)「わたしの住む串地区の生活は、昭和40年頃から大きく変わったように思います。道路が少しずつ整備され、三崎(約10km)まで、ハイヤーで行くことも出来るようになりました。それまでは、『きくまる』で三崎へ、別府へは『繁久丸』で、八幡浜へは『八幡丸』でという生活でした。バスを利用することは、ほとんどなく、時たま利用すると『197いくな酷道』と言われた八幡浜までの道程は、車酔いとの闘いでした。今だに別府の歯医者さんへ行く人が多いのは昔からのなじみがあるからだと思います。
 今では、昔、三崎まで出るよりもずっと気軽な感じで八幡浜へ買物にでかけたりしますが、当時、三崎の秋祭りや診療所通いのために三崎まで出るとなると、一張羅(いっちょら)の服を着て、いそいそと、でかけたことが懐かしい。」と当時の生活を語る。

 (ウ)危険がいっぱいの路線

 当時伊予鉄バスの運転手だった**さんは、愛媛新聞(昭和40年3月19日付)に「伊方町までの道程の3分の1は軒下を走っているようなもの。瀬戸町から先はガケ沿いの道で、弱い路肩に気を奪われるし、途中では定期に走るトラックなどの通過時刻の確認を怠ると離合に大汗だし。」と連続するカーブに悲鳴をあげ、危険がいっぱいの路線の現状を語っていた。八幡浜から三崎へ帰るある婦人が「バスが発達しても船便が好きです。運賃が3分の1くらいですし、第一、バスの中で寝転べないでしょう。海が荒れるといっても年間数えるくらいしかありません。」と船便を礼賛した記事も載っていたが。しかし、隆盛を極めていた沿岸航路も、マイカーの激増などもあって利用客が減少し衰退の一途をたどるようになってきた。三崎~八幡浜間の定期船「八幡丸」経営の八幡浜運輸では一時運休の兆しもあったが、半島地域の特殊事情もあって存続を決定し、国の離島航路の認定をうけ、その補助金や関係一市四町の負担金などで営業を続けた。しかし、利用客の減少は止まらず、各船舶運輸会社では、高速化・フェリー化を推進し乗客の回復に努めた。

 (エ)高速化とフェリー化

 八幡浜運輸は、昭和52年5月高速艇「みさき」(80人乗り、60t、速力23ノット)を就航させ、所要時間も半分以下の70分に短縮するなど合理化が図られた。しかし、利用客数は一時持ち直したものの、56年以降は急激な減少となり、59年にはピーク時の35% (年間45,000人)にまで落ち込み、経営は一層困難となり多くの関係住民に惜しまれながら昭和60年10月に運休、様々な思い出を残して、佐田岬半島各地を結ぶ唯一の足であった沿岸航路も90年の歴史に終止符を打った。

 (オ)道路がよくなれば回漕店として

 **さんは「八幡浜からどんどん道路がよくなってきたころ、まだおやじがやっていたので、口出しすることはしなかったが、これはいずれ船がいかんようになるのが決まっているのやが、何か今のうちに会社は手を打たんもんかなぁ……と自分なりに思っていました。八幡浜運輸は三崎だけからのものでしたから、宇和島運輸のように宇和島~九州をつなぐ航路をもっていれば、いくら道路がよくなっても、海の上では何とか生き延びる手はあるが、八幡浜運輸は陸路がよくなればお手あげと心配していましたら、あんのじょうその通りになりました。
 それに対抗するために高速艇が考えられたのですが、わたしはこれは一時しのぎに先が見えとらい。会社が手を打たんもんやから、わたしはわたしなりに生きる道を考えなくてはいけないと思い、タクシーとトラック運送の免許をとりました。船を当てにしてもメシは食べられないから自分で経営しなければならないと思って。」と当時を語る。
 一方バスも、昭和40年代に入ってから、道路の改良工事が進むにつれて自家用車が急速に普及し、過疎化減少による人口の流出もともなって定期バス利用者も減少し運行回数も減ってきた。
 昭和44年4月7日には、四国・九州を結ぶ国道として、住民の夢と希望を乗せた国道九四フェリーが就航し期待されたが、197号線の改良・バイパス工事が当初の計画より大分遅れたため、半島全体の道路が悪く利用者から敬遠され、当初二船で一日6便も運行されていたフェリーも昭和47年7月から一船3便となった。
 三崎町正野地区、佐田岬灯台までの5kmの間に200戸が点在し、けわしいウサギ道で結ばれている。働き盛りの若者は出稼ぎに行っており、残っているのは老人、女性、子供がほとんど。正野の奥地は陸海の定期交通の便は皆無。「通院するにも一日がかりで数時間山坂を越えなくてはならず通院も困難。困るのは急患のときで、漁船を特別に仕立て病院へ連れていこうと思っても、冬季は強い波浪のためほとんど不可能であることから置き薬を飲ませる、たとえきかないことがわかっていても……。」と置き薬様々だ。「フェリーもよいが灯台の突端までの、まず道路をつけなくてはどうにもならん。」と訴える(愛媛新聞昭和40年3月6日付)。

 (力)町の商業診断

 「三崎町誌」によると、昭和39年以降の商業統計から三崎町の商業活動を概括してみると、まず商店数は総数だけみると横ばい、昭和39年から昭和57年の間に三崎町の人口が昭和39年3月31日10,326人、57年3月末5,927人になって、42.6%も減少しているにもかかわらず、商店数はそれほど減っていない。商品販売額も順調に伸びていると記述しているが(⑧)、その後の、道路の改良(国道197号線のバイパス完成)によってどう変わってきただろうか。三崎町商工会の「三崎町広域商業診断報告書」よりみてみる。
 商店数は、昭和60年135店あったものが、63年に一時的に増加したものの、平成3年には125店と減少傾向を示している。一方、年間販売額も減少している。
 地区別に商品の買物場所をみてみると、中心商店街である三崎町商店街の利用割合は、「週3回以上」が31.2%、「週1回」が18.2%であり、地元三崎地区の割合が高い。二名津地区からは「ほとんど行かない33.3%」、「月に1回27.8%」が多く、串地区からは道路事情もあって「週に1回28.6%」、「月に1回28.6%」が多い。このように三崎町商店街の吸引力は、三崎地区に偏っているのが実情である(図表2-1-7参照)。
 一方、町外の利用割合は、八幡浜市の大型店で「月1回以上」が51.7%となっており、すでに住民生活の町外商業地への依存は一般化しているといえる(図表2-1-7参照)。
 住民の三崎町商店街に対する希望としては「値を安く」が67.7%と最も多く、ついで「品が古い」が64.5%、「駐車場の増設」22.6%などが上がっており(⑬)、商品の新鮮さや品そろえ、値段の外、ソフト・ハード両面に及ぶサービスの充実が強く望まれている。
 三崎町商工会事務局長は、「町内の商業者(とくに小売業)にとって、昭和62年のメロディーラインの開通により、一層の購買力流出が進み、その上町外資本のミニスーパーの進出、また、平成4年12月にはJAのAコープ開店、若者の人口流出、高齢化等、マイナス要因が数多くあり大変厳しい状況にあります。今後の対応としてはシール事業の活性化と港湾埋立て地における共同店舗づくりへの取組み、九四フェリー㈱の乗場移転後の跡地利用策(県有地であるが商店街への顧客の駐車場として利用出来ないか。)など、町行政のご協力を得ながら積極的に進めていきたいと考えております。」と語る。

図表2-1-7 場所別買物頻度

図表2-1-7 場所別買物頻度

三崎町広域商業診断報告書(⑬)より作図。