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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)宇和島藩の参勤交代の道

 宇和島藩の参勤交代の道について、**さん(瀬戸町三机 大正6年生まれ 75歳)の口述を中心にまとめる。

 ア 参勤交代の順路

 「海が凪(なぎ)の場合は、宇和島から乗船して伊方浦経由で塩成(しおなし)にあがり、藩主は山道をカゴで越して三机(みつくえ)の御仮屋に入る(*1)。一方、空船は佐田岬半島の先を回って三机に入るということやったですね。時化(しけ)の場合は、塩成が砂浜で上陸できないので、伊方浦川永田(かわながた)にあがって、そこからカゴで尾根づたいに九町から二見(ふたみ)を経て三机へ来たということなんです。」と語る。
 「瀬戸町誌」によると、宇和島藩の参勤順路として三つあげている。一つは宇和島より陸路カゴで卯之町~八幡浜~伊方~三机へ。一つは宇和島より乗船して川永田(伊方町)に上陸し陸路カゴで三机へ。一つは塩成(瀬戸町)に上陸して陸路カゴで三机へ入っていた(①)。

 (ア)塩成~三机間が選ばれた理由

 佐田岬半島は満潮・干潮時における宇和海、伊予灘の水位がかなり違い、そのため、半島の先端での潮流はことに速く、ここを往来する船の難所として知られていた。そこで当時の藩主富田信濃守はこの難を避けることと、伊予灘へでる時間を短縮するために、半島でその幅が最も狭く、双方に良港を持つ塩成(宇和海側)、三机(伊予灘側)間を選び、ここに運河の掘削を計画したのである。

 (イ)富田信濃守の堀切工事

 この工事は慶長15年(1610年)というから今から382年前の事、信濃守は、半島の浦里から男女を問わず人夫を集めて掘らせた。芋の茎を集めて乾燥させ、これに火をつけて岩を焼き、岩をモロクしたのち、金つきなどで崩していたらしい。「この金つきは、三机の**さんが所蔵していると言われていたが、現在は瀬戸町民センターに保管されている。」とのこと。この工事は岩盤のため難工事で、犠牲者が数万にも及んだと言われ、3年後約3%の工事をしただけで中止された。このような無謀な工事をしたことから藩主は改易(かいえき)となった。そのため運河とまではいかなかったが、尊い先祖たちのお陰で、現在車で三机から塩成間は5分もかからない。「地元ではこの工事の犠牲者を祭る(供養様)と称する塚があり、供え物をする人も見かけられる。」そうである。

 イ 参勤交代の「海道」

 当時の船の動力は、各浦から選び抜かれた水夫(かこ)による櫓(ろ)漕ぎであり、風のあるときは帆を利用した。
 宇和島樺崎(かばさき)を出港してまず難所が一つある。北宇和郡吉田町の奥南(おくな)運河(舟間(ふなま)と楠ケ浦の間)である。満潮なら問題はないが、干潮の時は近くの人夫を集めて船をかついで運河を渡ったとのこと。このようにしてでも、奥南の突端大良鼻(おおらのはな)を回るより2時間近く短縮されるということで難所ではあるが重要なコースであった。
 御座船(ござぶね)が航行中時化にあったときは、下泊(しもどまり)(三瓶町)か上泊(かみどまり)(八幡浜市)に避難していたようである。**さん(三瓶町下泊 大正8年生まれ 73歳)は、下泊の避難港について古老から聞いた話として「下泊が避難港になったのは天然の良港であったから。冬の季節風は泊崎(とまりさき)、高島が防波堤となって港内波静か、また、沖からは港の奥が見えず良港としての条件を備えていたため。」と語る。
 このことについて「旧街道」には「三瓶町に下泊、八幡浜市に上泊というなにか意味ありげな共通の名前が見つかる。京が近い方が上、遠いのが下である。5万分の1の地図をひろげると、地形も北を開けて南にすぼんだあまりにもよく似ていることに気づく。
 本県をおそう台風は南予を通過して太平洋に逃げるか瀬戸内海へ抜けるかして、宇和海はその圏内をとうていまぬがれることができない運命にあるから、マジ(南風)のおそろしさは知りつくされている。地形はそうしたマジを完全に防いでいるわけだ。」と記述している(②)。
 藩主を乗せた御座船が下泊、上泊の港へ避難しないときは、順風に帆をあげて塩成に夕方には着いたらしい。塩成の役割で遠見山・和田山(遠見所)の監視はとくに重要であった。「藩主参勤の上下向の日程が決まると、数日前から人員が配置され、監視人は藩主の御座船の動向を逐一三机にノロシを上げて報告していた。しかし、ノロシが思うとおりに着火しなかったり、忘れたりして再三失敗があり、かかり役人にとっても頭痛の種であった。」とのこと。
 藩主はこの浜からカゴで堀切りを越えて三机港にある御仮屋に入っていた(図表2-1-2参照)。
 三机港は、瀬戸内海に面して湾が深く内海航路の要衝の地であったから参勤交代の船旅はもちろんのこと、漁船、商船その他各種船舶が立ち寄ったので宿屋が繁盛した。その最盛期は大正初期から末期で、当時この三机には六軒の宿屋があったといわれる。これは藩政時代のことであるが、藩の御用商人がここ三机に泊まると、地元商人は大そうもてなしをしたそうである。このことは、「三崎半島地域民俗資料報告書」によると、「地元商人には一つの目的があった。その目的とは、御用商人からあらゆる商売上の情報を探りだすことと、出来るだけ長く三机に滞在させることであった。情報を探りだした地元商人は、早急にこの地を立って藩の商売の先取りをした。(③)」というのである。
 御仮屋は、参勤の基地として、三机に藩主休息の場所として建てられたもので、現在の町民センター西方約150m位の所にあった。海が時化ると、一行は三机の町でとう留するが、その時藩主たちは神仏信仰のあつかった時代であったので、海上安全を祈願するため八幡神社に必ず詣(もう)でて御祈とうを受けていた。
 この八幡神社の境内には、ウバメガシの樹林に囲まれたくぼ地が残っている。ここが六艘堀(ろくそうぼり)の跡である。「ここに時化の場合には、風を避けて帆船を保護するために六そうほど繋船(けいせん)していたようで、そのことから六艘堀と呼ぶようになったと思いますよ。」と語る(写真2-1-3参照)。
 「旧街道」には、ここに御座船の六そうが常備されていて、塩成まで乗ってきた船が佐田岬の鼻を回れないとき、この船に乗り換えて広島寄りの内海を東に進んでいたと記述している(②)。
 御座船は、潮流や天候を選んで三机港を出港し、伊予灘、瀬戸内海を渡り途中青島、弓削、白石、牛窓などの港を経由して室津に至る。そこで上陸して山陽道、東海道を経て江戸入りをした。


*1 文政9年(1827年)12月17日に三机の御仮屋が大破となり、三崎浦の二名津を利用することになった。この時の御座船
  は、半島の先端三崎町の佐田港へ上陸し、山を越えて三崎に、ここの庄屋でくつろぎ、さらに二名津へ越えて瀬戸内海に向
  かったといわれている。

図表2-1-2 遠見所と一里塚

図表2-1-2 遠見所と一里塚

「瀬戸町誌(①)」P284、「ふるさと再発見のみち(⑲)」P33より作図。

写真2-1-3 六艘堀の跡

写真2-1-3 六艘堀の跡

ウバメガシの樹林の中にいまも残っている。平成4年7月撮影