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宇和海と生活文化(平成4年度)

(4)家を支えた串の女性

 **さん(三崎町串 大正13年生まれ 68歳)
 **さん(三崎町串 昭和8年生まれ 59歳)
 **さん(三崎町串 昭和23年生まれ 44歳)

 ア 少女時代

 **さんの子ども時代「わたしが5歳のとき祖父がカジキ釣りに台湾に出て漁業に失敗し、家屋敷、畑が人手に渡った。6年生になってやっと自分たちの家が持てた。母親は残された祖父の子どもとわたしたち兄弟を育てるのに大変苦労をした。父親が船の機関士の資格を取り、運搬船に乗り対馬にも出るようになって少し生活がよくなった。
 小学校3年ごろまではわたしが弟や妹の子もりや世話をした。3年生になって他所(よそ)の家の子守りをするようになり高等科1年までやった。1時に学校がひけてから、家から1kmから2km離れている畑まで赤ん坊を連れに行き、おんぶして帰るのがわたしの仕事であった。15日毎に子守り賃をもらい親に渡していた。半年に1回お祝儀に着物とか反物をもらった。
 裁縫は小学校4年ごろから始めた。6年生になると自分の着物は自分で縫うようになり、弟や妹のものを自分でつくった。人について習うのではなく自己流で分からんところは本をみて縫った。学校は高等科2年まで行った。」
 **さんの子ども時代「生まれは隣の正野である。実家は漁は父がしていたが農業が主であった。串は家と畑が離れているが、正野は家の囲りに畑があった。そのため家に帰って昼食をとることができた。そのかわり学校への通学は1時間ぐらいかかった。今のように靴はなく下駄で通学していた。当時は道が悪く雨降りの日には鼻緒は藁をなって作っていたので、学校の帰りには切れていた。下駄を肩にかけ跣で帰ることが多かった。
 小学校時代はよく空襲があった。三崎はB29やグラマンの通路に当たっていたので、よく機銃掃射があった。警報が出ると学校の裏山に避難し樹の下で遊んだ。終戦のどさくさで夏休みまでは高等科1年にいたが学校をやめた。正野では比較的大きな百姓であった。6人兄弟で兄とわたしの下に4人の妹がいた。兄は兵隊に行っており4人の妹を世話するために学校に行かなかった(1級下から新制中学校となり義務制となる。)。」
 **さんの子ども時代「わたしが小学校に入ったころは食糧事情は良くなっていた。姉が2人いて上の姉とは11歳、つぎの姉とは8歳も離れていたから、わたしは姉たちが世話してくれた。着物なども姉が作ってくれた。**さんや**さんの少女時代にくらべわたしは恵まれた生活を過ごしたことになる。」

 イ 娘時代

 **さんは「高等科2年を終わってから、16歳になって養蚕の盛んであった伊方町や保内町の農家に出稼ぎした。わたしらの時代は串の女性のほとんどが結婚資金は自分で稼いで用意した。結婚する3か月前には別府で女中奉公もした。」
 **さんは「中学校を終了してから家で農業を手伝っていたが、大分県の方ヘノリ養殖作業に出稼ぎに行ったり、八幡浜市の酒六につとめていた。」
 **さん、**さん、**さんに共通している出稼ぎは、「八幡浜市真網代のミカンの収穫期に出稼ぎに行っていたことである。真網代から船で迎えに来る。1か月ほどは農家に住み込みで働いた。ミカン農家1軒に3人から4人が住み込んでいた。この出稼ぎを契機として、従来はほとんど部落内または隣り部落の正野との結婚であったのが、ミカン農家へ嫁ぐ人も出てくるようになった。」
 **さんは「戦後、兄が復員して学校に行くようすすめられた。青年学校があって週3回の夜学に兄がわたしを連れて勉強させてくれた。兄が勉強することの大切さを教えてくれた。青年団活動などの会合にも積極的に参加して知識や教養を吸収しようとした。その習慣が今もなお続いている。」

 ウ 結婚そして主婦へ

 **さんは19歳で串同志で今でいう恋愛結婚。**さんは26歳で結婚。 20歳のときから交際が始まったが、男性の厄年が終わるまでということで26歳となった。**さんは20歳のとき、今の主人に見そめられて結婚。結婚して**さんは息子1人、娘3人を生んだ。長男は漁業を継いで今伊豆沖にキンメダイ釣りに出漁している。長女は三崎に嫁ぎ、次女は大阪に、三女は伊豆下田に居る。**さんは二男一女で長男は東京に、次男は今治に、長女は三重に居て、今のところ漁業後継者はいない。**さんは二男一女で長男は漁業後継者で父親とともに漁業に従事し、次男は大学生、長女は高校生である。
 **さんは三崎町の生活改善グループの責任者であり、**さんも**さんも役員として**さんを助けて活動している。生活改善グループの活動としては料理実習や農産物や漁獲物の加工、カズラの籠つくりなどをやっている。県の物産展や町の文化祭にも出品している。「農作業は苦手でようせん。主人と建網に出ている。建網以外にもテングサやウニも採っている。ウニはむき身にしてビン詰加工をする。それを親類や子どものところに送り喜んでもらっている。家には94歳の母親が健在で、今も自分のことは自分でする。仏さまの毎朝の供養はわたし、おろして頂くのは母親。しゃもじは今も母が持つ。主人の膳は母がして母と主人の二人で食べている。わたしは村の役や行事のないときは、夏分だと朝5時には主人と建網をあげに行く。」
 **さん「父親が元気なときは百姓仕事をしていた。父親がなくなってからは、海士をやっている船のとも押しとして海に出るようになった。海に行くようになってからは畑も荒れて、耕作に便利なところだけ主人の妹が耕作している。5年ほど前から脛が悪くなったことと、主人も体を悪くしたので海士をやめて一本釣り漁業に変わった(写真1-3-7参照)。主人とともに漁に出ているが、役のため会に出席するときも主人は小言をいわずに出してくれる。」
 **さん「子どもを生んで長男が3歳になったとき、母親に長男の子もりを頼んで主人とともに漁に出るようになった。結婚した当時は、海士は3人から4人が組みになって潜んでいた。だから漁に出ることなどは考えてもみなかった。人手不足や他人を雇っての漁では採算がとれない。海士の主人の船のとも押しで海に出るようになった。串で女性が海士のとも押しを始めた第1号は私ではないかと思う。長男が学校を卒業して主人の船に乗るようになってから私は船を下りた。」
 戦前から戦後にかけて、串をはじめ正野や与侈の集落では海士と一本釣り漁業を営むとともに背後の山を開拓してイモ・ムギの耕作と一部ミカンの導入による半農半漁の生活であった。男は漁に女は畑にという家庭内分業のムラであった。自給自足の生活から食糧事情の好転、さらにミカン価格の低迷に対して魚価の高値安定、経済の高度成長に伴う若い労働力の流出が、地域の生活を主漁従農に変えていき、農をやめて主人とともに漁に従事するムラヘと変容していった。

写真1-3-7 速吸瀬戸での一本釣り漁船

写真1-3-7 速吸瀬戸での一本釣り漁船

海士から一本釣り漁業に変わった**さん夫婦。平成4年9月撮影