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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)伝統の業(わざ)とその継承

 ア 岬の漁業の特色

 三崎の漁業の特色は佐田岬半島の岬端に位置しているところから、漁場が瀬戸内海海区の伊予灘と太平洋南区の宇和海にまたがり操業できる有利性をもつこと。岬端地域は碆(ばえ)と呼ばれる岩礁地域で、アワビ・サザエの貝類やワカメ、ヒジキ、テングサなどの海藻類の生育海域で海士による伝統的な漁業が発達したこと。速吸瀬戸と呼ばれる豊後水道は、「太平洋の水塊と栄養分に富んだ瀬戸内海の海水が混合し餌料生物の発生が多い上に、夏場には湧昇流が発生し年間を通じて水温変動が少ないこと。またマダイ等の産卵回遊やブリ等の索餌回遊の道筋にあたるなどの好漁場の条件(⑨)」をそなえており、海士漁業とともに一本釣り漁業を発達させた。平成4年の漁業種類別・地区別組合員数と魚種別水揚高からも、三崎の漁業形態は正組合員319名中、一本釣り(150名、47.0%)、採介藻(98名、30.7%)、延なわ(49名、15.4%)、刺網(15名、4.7%)、沖合(7名、2.2%)である。

 イ 海士(あまし)の詩(うた)

 **さん(三崎町串 明治41年生まれ 84歳)
 **さん(三崎町串 大正3年生まれ 78歳)
 潜水漁業といわれるものには、鉛のヘルメットをかぶり潜水服で船上からエア・コンプレッサーで送気する漁業や、もっと軽装なウエットスーツでエアを送る潜水漁業がある。平成4年3月に松山の堀江沖でタイラギ漁中にサメに襲われるという事件は、潜水漁民や港湾工事に従事する人びとを恐怖に陥れた。この潜水漁業とは異なって、昔から素潜りで海に潜(す)み魚貝類を採取する伝統的原始漁業の海士・海女による潜水漁業がある。
 愛媛県下で海士による潜水漁業は、佐田岬半島の三崎町の岬端部に近い与侈(よぼこり)、串、正野の集落である。現在はウェットスーツの普及により、テングサやウニの解禁のときは女性も潜水するようになったが、本来は男だけの海士のムラである。
 三崎海士の歴史については、天保4年(1833年)の「四国中国廻浦御用日記(⑧)」に、寛政11年(1799年)までは宇和島藩領には海士はなく、長崎から水練稼之者を呼び寄せたところ海士が多くできた。当時30人ほど海士がいたと記されている。1年間にアワビを6,000貝ほど献上し、その稼場(かせぎば)は三崎・三机両浦であったとし、三崎海士の起源を寛政以後としている。この記述は聞き書きによるものであるので正確は期し難い。野坂貝塚のアワビやサザエの遺物や、三崎中村遺跡の子持勾玉の出土品、さらに佐賀関の早吸日女神社と正野の野坂神社、明神の客神社の伝承の共通性から考えて海士の起源はもっと古いものと考えられる。
 宇和島藩、古田藩では漁業税としてイワシ網漁業には五分一銀を納入する定めがあったが、アワビは三崎と三机の特産品として物納をさせていた。宇和島藩の租税台帳である「弌墅截(いちのきり)」には三崎浦のアワビとして「役鮑(やくあわび)千九百盃(⑪)」の記録がある。
 **さんは現在84歳で耳の不自由さを訴えているが健在である。串で生まれ育った「大海士(おおあまし)」である。大海士とは後述する分銅(ぶんどう)あましのうち、高度な潜水技術をもち、30尋(1尋1.5mとして45m)を潜(す)むことのできる海士のことである。大海士と呼ばれていた人も串では**さん一人になった。**さんは「大海士は学校の位でいうたら大学出で他の海士よりも稼ぎが大きかった。海士仲間からは信頼されていた。」という。
 **さんは現在78歳であるが、今なおかくしゃくとして、自分で船外機漁船を持ち、磯建網漁師として現役で働いている。戦前は大分や宮崎の磯を買って串の海士をやとい船主(海士仲間からは大船頭(おおせんどう)と呼ばれていた。)として出漁していた。
 **さんも**さんの家も代々海士の家である。**さんの父親は串のカンヅメ会社の丸一組にやとわれて、韓国や北海道まで出漁していた。**さんの祖父も父親も大分県や宮崎県の地先の磯を買って、串の海士をやとい出漁していた。
 **さんや**さんら串の子どもたちは、小学校3年になると上級生の仲間に加わって磯に出るようになる。2人の話では、「3年生のころはアワビやサザエではなくおもにテングサを採取していました。5・6年生になるとアワビやサザエが目にかかるよりました。見よう見まねで、上級生から潜水の業を習得していきました。上級生が、どういうところには、こういうアワビがおるぞと教えてくれました。」
 三崎町串郵便局には「串の子どもの歌」(図表1-3-6参照)の歌詞がかかげられている。**さんも**さんも今もその歌を暗記しており、なつかしそうにうたってくれた。
 **さんは、「串には坂組、北組、中組、下組などの組があって、子どもたちもそれぞれの組の仲間(6人から7人)と行動を共にする。昔はモッコの中に浜でたくたき木を一人が3・4本入れて、タガネやタルやイソガネなど潜(す)むための道具をそろえておく。学校がひけたら仲間うちで今日いく磯場を決める。
 子どもたちには船はありませんから、陸をつたって漁場につく。背負ってきたモッコをおろして、海からあがって暖をとるための火をたいておく。イソメガネをつけ、タルを持って、一(いち)、二(にい)、三(さん)と飛び込んでアワビやサザエを採りました。わたしらは潜水することをスムといっていました。あのころはどこでもアワビやサザエがおったんです。」
 **さんは「土曜、日曜日は学校のある日よりも遠いところに潜(す)みに行く。とったアワビやサザエは浜の丸一組へ掛けに行く(収量をはかる)のだが、めいめいが行くのではなく、仲間うちで一番多くとった者が掛け人となることになっていた。仲間の獲物に名札をつけて、モッコの中に入れ、丸一組の事務所に運び、つけ(収量のこと)をつけ(記帳)てもらう。15日勘定で代金は子どもたち各人が受け取り郵便局に貯金していた。」**さんは「その貯金で学校の筆や墨などの学用品を買ったり、お祭の日には新しく潜むためにつけるフンドシの布を買ったりした。6年生ぐらいになると小遣い銭に困ることもなく、自分で稼いだ金は余るほどであった。」と串の子どもたちは親のスネをかじることはしなかったという。
 三崎の海士は、樽海士(たるあまし)(ヒョウタンアマシ)と分銅(ぶんどう)海士(クリアゲアマシ)に分けることができる。樽海士は海中に樽(ヒョウタンと呼ぶ)を浮べ、その下に獲物を入れるテゴと呼ぶ網袋をつり下げて潜む。樽海士の場合、水中にある時間はせいぜい1分程度であり、深さも5尋(1尋を約1.5mとして7.5m)から6尋(9m)程度である。浮上してテゴに獲物を入れ樽の上に腹ばいになって休む。
 分銅海士はおもりになる分銅(鉛製で重さ5.5kg~6.7kg)をもって潜む。腰には命綱をつけて20尋(30m)ぐらいまで潜水する。息の続く限り海底で獲物を採り、海底から命綱を引くと、船上の者がすばやく命綱をくりあげ浮上する。そこから分銅海士のことをクリアゲアマシと呼ぶ。分銅海士は樽海士にくらべ技術的にも高度で収量も多い。
 昔は一隻に2人から3人が乗り組んで出漁していた。分銅海士の場合は、一人は船にいて浮上してきた海士が暖をとる火の管理と櫓を押す役割をもっていた。海士が潜んでいる場所から船が流されないように、命綱が長くのびないように注意することが船上のカジをとる者としても大事な役割をもっていた。
 **さんは「海士は1日に5カズキから6カズキ海中に潜んでいた(1カズキとは海中に潜水し漁労をすること。1カズキは普通40分ぐらいである。)。1カズキすると船にあがって暖をとる。30分ぐらい船で休み、『さあ、スミに行くか』といって潜んだものよ。」と話す。昭和36年(1961年)からウェットスーツが導入されて、潜水時の体温の消耗が著しく減少したため1カズキの時間も長くなった。
 昔は6尺フンドシをしめての素潜りでメガネは使用しなかったという。水中メガネの使用が始まったのは明治24年(1891年)で、五島列島方面より伝えられた。当時のメガネは木製で、三崎では桐を使用していたという。大正に入って金属製となった。現在のものはタコメガネと呼んで鼻までかぶさる大きな一つメガネであるが、その前は鼻を出した一つメガネでイッチョウメガネと呼んでいた。その前のメガネは二つメガネであった(⑧)。
 **さんの海士として生活は「小学校をぬけて、うちのおじいさまが大分県の佐伯の方の地先の権利を買うて出ていたので連れていかれました。小学校をぬけて2年ぐらいは一人前はもらえない。7分ぐらいもらっていた。それから1年したら一口(一人前)として認められるようになった。当時は大分と佐賀関にカンヅメ会社があり、アワビやサザエはそこに水揚げしておりました。1ぱい(1隻)に6人が乗り、わたしらは2はいで出ていた。夏から秋の2か月向うで操業していた。
 昭和3年に松山22連隊に召集され、1年半で除隊となり、昭和6年(1931年)に串の海士仲間10人(いずれも大海士(おおあまし)である)が共同出資して、長崎県対馬の北端の豊崎町(現在の上対馬町)の鰐浦の地先の権利を買って出漁するようになった。わたしは大海士で地元(三崎)では命綱は28尋(約42m)であったが、対馬へ出漁するときは34尋(約50m)から35尋(約52m)の命綱を持っていった。当時の対馬にはこんなおおけなアワビ(手ぶりで大きさを表現する。たての長さ約25cm、よこの長さ約12cmぐらい)が沢山とれた。
 エビも大きなものがとれました。対馬には母船(運搬船)1ぱいと海士船2はいで行きました。夏月(なつづき)は海がぬくいからあがる(水温があがりアワビが長く生きられない)でしょう。九州の戸畑や若松、下関の市場にはかしよりました(運搬して売りさばいた)。冬月(ふゆづき)は新正月や旧正月を目当てにしていくんです。アワビを千貫(3,750kg)ぐらいためて、伊勢エビやコウイカは大阪は川港じゃきん生きられん。船で神戸か西宮まで運び、そこから大阪、京都にはかしよりました。カジコは運搬する人で、大阪方面にのぼらんおりは、クリアゲ(海士)のカジコをしていた。売上げは皆で分配する。
 鰐浦では釜山行きの連絡船がすぐ近くを通っていた。海底には瀬があって、浅いところで17尋(約25m)から18尋(約27m)、深いところで30尋(約45m)ぐらいあった。深く潜むと35尋(約52m)の綱が潮の流れでもうキチ、キチと音をたてておる。500匁(1,875g)から700匁(2,625g)のアワビが30パイぐらい溝の底になまっとる(並んでいる)。1スミで5はいほど取るわけだが、綱で体がしめられるきんな。
 鰐浦には伊勢の海女、済州島の海女、対馬の曲の海女もきていた。海女は海底のヘリ窪みにいるアワビはようとらんじゃった。わたしらにとってくれといっていた。三崎の海士は現地でも一目置かれた存在じゃった。」と大海士の貫録をしめし当時を回想した。
 「鰐浦ではむかしの武士(さむらい)の家に宿を借っていた。その時分にはヨロイやカブトが床(いか)の下においちょる。ヤリが12畳の間にかかっていた。その部屋に10人が寝泊まりし、食事の準備はカジコがすることになっていた。」
 **さんは70歳ぐらいまで現役の海士であった。晩年は実際にスムのではなく、カジコとしてとも押しをやった。**さんは長年の経験から、アワビの色や形をみてどこの磯にすむアワビかが分かるという。現役のときは他人には絶対にアワビの巣は秘密にしていたが、とも押しをするようになり後継者もいないので海士に教えるようになった。天候の都合などで海士仲間がとれない日でも、『オハコ(自分のとりつけているアワビの巣)へ行くぞ』といって、その場所に連れていくと必ず4はい5はいのアワビはとれた。
 **さんが小学校を終えた当時の仲間は、すぐ海士になるか大工見習で出て行くかがほとんどであった。**さんも小学校を修了すると父親に連れられ、大分県の南海部郡蒲江町の畑野浦、津久見市の堅浦、宮崎県北浦町の阿蘇や島浦島、宇和島市の日振島などに出漁していた。**さんの家は船頭で海士をやとい地先の磯を買ってアワビやサザエをとる家であった。**さんも海士として潜むのではなく、カジコとしてのとも押しであった。父親が早逝したため30代で船頭となり父のあとを継ぐことになった。
 「わたしが18・19歳のときまでは小船をろで押し、風があれば帆をはって県外に出漁していた。天気次第風次第で現地へ行くにも串に帰るにも時間がかかった。動力船になって1日で現地に行けるようになった。2ハイ(2隻)で出漁するわけだが、1船に4人の海士と1人のとも押しの5人で乗り組んでいた。県外に行く海士は三崎では大海士の分銅海士であるが、大海士でも特級(30尋〔約45m〕も潜水することのできるクリアゲ海士のこと)ではなかった。特級組は対州(対馬)へ行きよった。現地の宿も浜の家を借りると毎年そこが宿となった。食事は自分らで用意した。
 1回の出漁をひとじょうげ(一上下=1回の出漁期間)といって、海士たちはひとじょうげ契約で雇っていた。」
 終戦1年前には召集で丸亀にいた。終戦ですぐ復員し串に帰って、戦後しばらくは県外に出漁したが、漁業改革で地先漁業の磯の買売はできなくなり中止せざるを得なくなった。
 それからは**さん自身も海士の生活を始めるとともに、家の畑仕事もするようになった。
 長男が漁業後継者としてフグ延なわ漁業をするようになって、**さんは船外機付漁船を持ち磯建網漁で伊勢エビ漁や海士としてウニ、ワカメ、ヒジキ、テングサも取っている。
 今でも建網の時期は、朝5時には港には着いている。山腹斜面の串の集落から港までの坂道を歩く。日の出前に港を出て建網漁をする。仕掛けた網を引きあげて8時すぎには港に帰る。港の係船場の上の広場で網にかかった伊勢エビや魚をとりはずし、網のつくろいもする。伊勢エビの最盛期には奥さんも手伝っている。それが済むと午後再び定められた漁場に網を建てに出漁する。潮焼けした**さんの顔は78歳とは信じられないほどの若さである。

 ウ 速吸(はやすい)の業(わざ)-一本釣り漁業

 **さん(三崎町正野 大正6年生まれ 75歳)
 三崎の漁業の特色のところで述べたように、一本釣り漁業に従事する組合員は150名で全体の47.0%をしめ、水揚高も1,069,352千円で全体の48.8%をしめ、三崎の漁業の中での割合は大きい。        
 一本釣り漁業の主要漁場は、佐田岬の突端にある黄金碆(おうごんばえ)から一ノ瀬を中心とした宇和海と伊予灘にまたがる海域である。ここでは瀬戸内海の一本釣り漁村でみるように投錨して漁労することはしない。船を潮流に任せて流し、釣りのポイントとなる瀬の上を通過して魚を釣りあげ、再び瀬の上流へと船を移動させる。なん十回とその繰り返しの連続である。その日の潮にもよるが、日の出前に港を出た漁船は、佐田岬沖の漁場につき日の出とともに釣りはじめる。速吸瀬戸(はやすいせと)と呼ばれるごとく、潮流も早く瀬戸内海のようなおだやかな漁場ではない。百隻近い漁船が波や潮の流れに翻ろうされひしめきあうさまは壮観である。これで漁船同志が衝突しないのが不思議である。
 餌としてはエビ、イカ、小アジなどの生き餌か、赤・ピンク色のゴムの疑似餌を使用している。一本釣りの魚はタイ、ハマチ、アジ、イサギ、サバ、タチウオであり、フグは延なわによっている。一本釣漁業はたくみな操船技術と魚の「アタリ」と指先のタイミングの技術が漁獲量の多寡を決定する。それは長年の経験によって習得されてきた速吸(はやすい)の業(わざ)である。
 **さんは正野地区の老人クラブの会長である。一本釣り漁師としてフグ延なわ、アジ・サバのたる流し漁、漕ぎ釣りもやった。昭和32年に伊豆沖にキンメダイ釣りに最初に出漁した人であり、統合前の正野の漁業組合長もやった人である。
 **さんも小学校修了とともに、父親と兄の一本釣りのとも押しとして漁業に従事するようになる。といっても当時は無動力船であったので、もっぱらとも押しで釣りはさせてもらえなかった。父親はきびしい人であった。酒は好きで毎日かかさなかったが、決して1合以上は飲まなかった。96歳の長寿をまっとうした人であるが、84歳ぐらいまで一人で漁に出ていた。体を綱でしばり海に転落しないように出漁したという根っからの漁師である。正野の野坂神社の横の高台に港を見下すように魚供養碑が建っている。これは父親が88歳のとき個人で建てた碑である。三崎の海をこよなく愛し、海に祈り感謝する信仰心の厚い人であった。
 息子の**さんも若い頃は父親に反抗した時代もあった。父親や兄のもとでとも押しの生活をしていては将来は開けない。大阪に出て溶接工の見習いをやってみたが、1年しか続かず正野に帰ってきた。韓国でアワビやサザエを取り扱っている親戚を頼って韓国に渡った。徴兵検査もテージョン(大田)で受け、甲種合格で現地召集を受けた。満州に居るとき終戦となり30歳で除隊となり帰ってきた。
 **さんが本格的に漁師となるのは戦後復員してきた30歳からである。「最初は従兄弟2人とわたしの3人で一本釣りを始めた。漁船でなく伝馬船でやった。一日で手に豆ができた。それで伝馬船でやりよったていかんということで、3人が共同出資でやろうということになった。共同出資といっても資金は魚問屋からの借金であった。その金で焼玉エンジンの中古船を買った。親父さんに報告したら『今に夜逃げせなならんようになるぞ』とガイに叱られた。そのときは親と兄と一緒に漁をしてもなんにもならん。独立しようという意地もあった。そこで家を出て独りで住む家を借りて生活するようになる。部屋といっても窓も雨戸もない。入口にムシロをぶら下げて8畳の間に畳2枚しか敷いていないところであった。
 それでも漁船もできた。従兄弟と一緒に父親からも独立し、本格的に漁業を始めるようになった。結婚も義姉のすすめで結婚した。30歳のときである。家を飛び出しているので親に頼むこともできず、自分で直接相手の親に申し込んだ。
 当時は魚も多かったし、3人で稼いだから問屋の借金もすぐ返せるだけの水揚げはあった。従兄弟が『今、借金を返したら問屋はもうけにならんから、借金を返すのをやめよう。』といった。今から考えるとおかしな話であるが、当時は借金したら魚は問屋に渡さなければならなかったし、問屋のいい値であった。従兄弟は借金の礼として返済を先おくりしようといったのだ。借金も返すことができ、従兄弟とも離れて独立するのもそう長くはなかった。
 一本釣りが主体であったが、フグ延なわもやったし、昭和32年には伊豆沖へも出漁した。アジ・サバの流しもやった。アジ・サバ釣りは一本釣りとたる流し釣りでは流しの方が水揚げが多い。しかし、たる流し釣りは家に手伝う者が居ればよいが、私一人でやると続かなくなった。というのも晩に帰ってから翌朝の準備をしなければならない。ショウチュウを一ぱい飲みたいと思っても準備に追われて飲む間もない。それで参ってしまった。そうしたら広島県の上室島の漁師が、イカナゴを餌にして漕ぎ釣りをやっていた。これはええと早速にその技術を習った。当時は疑似餌も出ていて、枝糸を100本以下とするという規制はあったが、たる流しから漕ぎ釣りに転換した。漕ぎ釣りの方がたる流しより水揚げも多い。たる流しは準備がいるので多くて1日に2回ぐらいしか操業できないが、漕ぎ釣りの場合は1日中操業できる。結局、漕ぎ釣りがたる流しに勝ちよった。最初は手で引き寄せていたが、ローラーに変わってきて操業も楽になった。」
 **さんが漁師として現役を退いたのは、神戸に出ていた三男が帰ってきてからである。65歳当時は現役であった。三男が漁師になるというので一本釣りの技術を教えた。
 今、**さんは手術後のリハビリをしている。歩んできた漁師としての人生をふり返って、「わたしは人前で話すことがきらいであまり話したことがない。戦後の組合の統合や漁業権の処理問題など当事者としての苦労や、昔の漁師の生活などを話しても、今の後継者たちは『**オジ、漁をしたことがあるのか。』と耳を貸さない。」と慨嘆された。

図表1-3-6 串の子どもの歌

図表1-3-6 串の子どもの歌

<補>大正五年頃、第三代学校長佐々木歌之允先生が作られ、子どもたちに常に暗唱させ、訓育のよりどころにされたという。-加藤英松氏の口述による-S60・3辻記-