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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)家の主客は「オカイコサマ」

 段々畑における桑園や養蚕もまた、佐田岬半島の農業にとっては欠くことのできない風物詩であり重要な産物である。藩政代の貢租負担には米、大豆の御成物(主税)の他に、小物成(雑税)として真綿、麻、漆(うるし)、楮(こうぞ)などがあり、各村・浦ごとにそれぞれの品目が割り当てられていた。しかし当時の養蚕は、多くは婦女子の手内職として、魚具や魚網などに用いる粗糸を繰り、あるいは真綿をつくり紬糸をひいて自家用に用いる程度であった。
 蚕糸業が注目されるようになったのは、明治維新後のことであり、生糸の輸出が有望であることに着目した各藩は、士族などの生活の活路として蚕業の奨励に努めた。宇和島藩では明治3年(1870年)の春、滋賀県より養蚕・製糸・機械の熟練者5名を招いて藩士に伝習させ、藩営の生産場で藩士の小川信賢らが、その技術を身につけたのである。明治4年(1871年)の廃藩置県によって、藩営としての養蚕事業は中止することになったが、小川信賢らは、明治7年(1874年)に長男信理(28歳)等3名の若者を、群馬県の相生町に派遣して捻糸・色染・機械の技術を学ばせ、その後も、南予の各地域を回って蚕糸業の拡大に尽力した(⑫⑬)。
 初めのころの養蚕は、旧藩士や地域の資産家の間で飼育され、「旦那衆」の副業と言われていた。つまり失敗を恐れる農家の間では、なかなか取り組みができなかったようである。
 西宇和地方で最初に養蚕が取り入れられたのは喜木村(保内町)で、明治13年(1880年)ころといわれ、明治16年(1883年)に宇和島の和霊神社で開かれた本県最初の繭品評会においては、喜木村の隣り須川村(保内町)河野文平が、出品51点中4等級に入賞した記録があるなど、技術的にも優れた産地であったことがうかがえる。この地域の養蚕は、喜須来・宮内(保内町)、日上(八幡浜)などの純農村の陸地部、から広がりをみせ、温暖な気候風土が養蚕業に適し、労力の供給も容易であったことから次第に繭の生産に力を入れるようになってきた(⑧)。
 佐田岬沿岸部での養蚕の導入は、陸地部に比べるとかなり遅くなってからである。伊方町では明治28年(1895年)、伊方町八幡神社の宮司、桃垣甫人(はじめ)が愛知県から魯桑(ろそう)という新しい品種の桑の苗木を取り寄せ、養蚕を奨励したのが始まりといわれ、三崎町では、これよりもさらに遅く明治40年(1907年)前後から、ぼつぼつ桑園作りが始まっている。
 このうち伊方村においては、日露戦争(1904~1905年)後において養蚕農家が急増したといわれ、質の良い桑苗の無償配布や、養蚕講習会を開いて農家の飼育技術の向上に役立てるなど、関係機関をあげて養蚕奨励が進められている。その結果、大正後期から昭和初期にかけての伊方村の養蚕は、菅田村(大洲市)・奥南村(吉田町)と共に県下の三大産地として発展し、最盛期の昭和5年(1930年)には、伊方村の養蚕農家は866戸、村内全戸数の61%にまで達している(⑨)。
 養蚕を体験した古老を伊方町に訪ねると、「オカイコ飼いの仕事は、桑の摘みとりから始まって負い子での運搬、給桑、蚕の排せつ物のしり替え等休む間のない忙しさでした。とくに給桑は、オカイコの小さい間は2~3時間置きに桑をあげ、大きくなってからでも一日5~6回の基準が定められているので、この飼育期間はその度ごとに真夜中でも起きだして、桑をあげなければならない作業がありました。また蚕が育ちやすいように、室内の温度や湿度の管理にも心を配らなければならなかったので、稚蚕(幼虫)が入ってから上族(繭を結ぶ)するまでの20日余りは、それこそ家中が、オカイコ、オカイコの明け暮れでした。」とのこと。
 養蚕景気のころの農家は、二階建ての大きな家を新築しても、家の中の一番良い場所を蚕室にして、人間はその片隅で生活するという営みであった。蚕のことを「オカイコサマ」と呼び、その飼料の桑を与える時も「桑をあげる。」と敬語を使うことが普通の言葉であったから、この時代に生きた人々が、商品農業としての繭の生産に、いかに意を注いできたかが理解できる。
 蚕は病気に弱いので、万一病気にかかると伝染が早く、大量の蚕を腐らせてしまうのでそのときには全く金にならない。前述の古老は、さらにそのころをふり返りながら「今のオカイコ飼いは、飼育の技術も大幅に進み、共同化や施設の改善によって、昔に比べると大分楽になったと聞きます。それに比べると昭和の初めのころのオカイコ飼いは、いつも細かい神経を使って心の安まるときがありませんでした。それでも、家にオカイコが居たからこそ、イモ・麦よりもお金になったし、貧しいけれど大勢の子供たちも元気に育ってくれました。」と言葉を継ぐ。
 明治の終わりから大正期にかけて大きく台頭した本県の養蚕は、ピーク時に達した昭和5年には、桑園面積が14,729haと本県畑面積の33%にまで植え付けが進み、このうちの約55%を宇和4郡の南予地帯で占めていた。とくに温暖な栽培条件に恵まれていた西宇和郡の伊方、真穴、東宇和郡の玉津、北宇和郡の九島、三浦、北灘などの段々畑は、その耕地の半分以上が桑園という盛況ぶりであった。
 ところが昭和4年(1929年)10月、米国株式市場の暴落に端を発した経済恐慌は、世界中を飲み込んだ大恐慌の襲来という形で、農産物価格は急落し、とくに米と繭価格の低下が著しかった。当時の本県農業は、稲作と養蚕を柱とした経営体が主流を占めていただけにその打撃は大きく、とくに養蚕農家比率の高い南予一帯の農業に暗い影を落とした(⑪)。
 経営規模の小さい沿岸地帯の農業にあっては、繭価格の暴落は直ちに生活の困窮につながることになる。これまでの命綱が切れかかった段階では、生きるための手段として、桑園の整理転換も止むを得ず、副業への取り組みや出稼ぎなどの動きも年ごとに目立ってきた。そして昭和12年に突入した日中戦争の激化は、食糧増産のためにさらに桑園の開墾を促し、長年見慣れた段々畑の桑園風景は、再びイモ・麦の段々畑に姿を変えていった。