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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)ほこ漁名人を育てた海

 ア 玉栄丸16尺

 **さん(三瓶町垣生 昭和3年生まれ 64歳)はタンカーの基地二及(にぎゅう)と三瓶湾に挾まれた垣生漁港が目と鼻の新興団地に住んでおられる。静かな垣生の港に、玉栄丸は船体を休めているかのようであった。
 **さんは「わたしゃ7人兄弟の長男でなあ、小学校(二及村立の二及尋常高等小学校)4年生から船に乗りましたのよ。」という。家計を助けて**少年は、早くから稼ぎに出ていたのである。
 「近くの網元の船で四つ張網でしてな、年令(とし)にあわせて『分(ぶ)』が決まっちょりましてな、盆と正月に給料貰いよりましたわい。小学校の4年・5年の時分から夜空の星を見て時間が分かりよったけんな。」という船には、当時ラジオも時計もつけてなかった。網子の大人に混じって働く**少年は、夜の星と潮・昼の山と潮で少しずつ漁師としての下地を身につけていくのである。
 赤紙(召集令状)なしの軍属で、軍人と同じように出征兵士として送り出されるのであるが、新居浜の住友機械第三鋳造(磯浦)で終戦を迎え、復員して再び船に乗る。この年(昭和20年)には三瓶町にも空襲があったが、大雨後の山中へ焼夷弾が投下されたので被害を免れたとある(⑥)。
 「わたしゃ学校の遠足には、しょう油とマッチと鍋を持って行きましたのよ。みな弁当持って行きよったけんどなぁ。」といわれるように、小学校時代から出向く先々で自炊をした。「鍋で飯炊いてな、木を集めて、どこにでも転がっとるんですけん。ツマミはワカメがある。(漁で)どこの港へ行ってもそうですよ。」と歯切れよく話される。いかにも海の男らしく、さわやかでたくましい。その**さんがいよいよ自分の持ち船(玉栄丸)をもつようになる。
 「わしゃタバコ吸わんのよ。」で始まった話である。「あの時分、月に700円吸いよったタバコやめてな、300円足して毎月1,000円を漁協へ積み立ててな、13,000円で船を新造した。昭和25年にな。」それ以来タバコは吸わぬという。
 昭和25年に結婚し世帯をもった。**さんが父親に代わって一家の大黒柱になった記念すべき年である。
 船の長さは船底の長さでいう。玉栄丸は木造の13尺であるから実長は16尺になる。かつては**少年がともでろを操り父親がみよしでカガミ(箱メガネ)をのぞきながら鉾(ほこ)を使う「鉾漁(ほこりょう)」(金突(かなつ)きともいう)がその頃には逆の立場になって、漁には2人で出かけることが多かった。以来40年ほこ漁一本で3人の子供を養うことになる。
 現在の機械船は第12玉栄丸で、既に**さんの代になって6ぱい目の船だという。21尺ある。使用するほこ(金突き、ヤス)は何種類かあって、突いたり起こして挾んだりする。獲物によって使いわける(写真1-1-16参照)。
 「**さんのは量が多いだけじゃなしに、獲物がいたんどらんな。魚もみなついな所を突いちょるな。」と仲間の人たちはびっくりする。
 名実ともに、三瓶の名人である。
 **さんの漁場(りょうば)は水深5・6mの岩場であるから、リアス式海岸の沿岸や小島で、狙う獲物はアワビ・サザエ・タコ・ナマコと岩礁につく魚類(メバル・クロイオなど)である。魚類は季節によって変化がある。「寒のボラは目に膜張って、油がのって、耳が生える」という。耳が生えるという表現は面白いが、魚類の耳は内耳のみであるから、産卵前に突起でも生じるのであろう。一晩でトロ箱に4はい揚げることもある。
 活動する範囲は広い。三瓶湾を中心に南は明浜町の高山から西は瀬戸町の塩成(しおなし)に及ぶ。かつての「手押し」(手でろをこいだ船)は午前2時に三瓶を出て塩成に向かった。風をみて、湾を出ると帆をかけたという。「アラセ(*16)を利用して帆をかけて走り、やりやり(漁をしながら)帰ってきた」。現在は馬力の強いエンジンのおかげで30分もあれば塩成に着くらしい。奥さんの里からヤンマーを買って帰り、三瓶では比較的早くディーゼルエンジンを備え付けたので楽になったという。
 「釣りんぼ(釣りをする人)は、錨入れてこうやりゃいいよ(釣り糸を垂らす所作)、わたしゃほこ漁じゃ。船に腹ばいになってなあ。」という**さんは、1人で出かけた時は、船を動かしながらの漁で忙しい。「おかげで元気なからだに生んでもろうちょったから。」という胸板はぶ厚い。カルシウムが十分の筋骨たくましい漁師である。
 「魚が食わんけん潮が悪いなあ」という釣りんぼは、潮を知らずに沖へ出ているからだともいう。南の窓越しに雲行きを見て、空地に備え付けの風車(手製)を参考にしながら沖へ出る時機をうかがうのである。

 イ 模型の船

 三瓶文化会館の1階ロビーに飾られている船の模型はいずれも**さんの作品である。この船の模型は明治・大正・昭和とこの地域の経済をたすけた船という思いで製作したといわれる。
 「1ぱい作るのに半年ほどかかるなあ、仕事の合間(あいま)に作るんじゃけん。」という**さんは玉好中古船センター商会代表者の肩書きのほか、三瓶町関係の仕事で出向くことも多く、「忙しゅうて、あれ見てみなはい。」といわれた小黒板にはチョークで予定がかなり書きこまれている。漁には月平均5日しか出られないという。
 通された2階の部屋にもいろいろ模型が並んでいる。手にとって見ると大変こまかい細工である。「子供の時から船体に触(さわ)って育ったから、どこに何があるかは分かっとりますらい。船大工が見ても『おーっ、ようできとる』いわいな。」と模型をなでる手も指も太い。
 庭先で音もなく回転している紅白の風車も神棚に祭ってある福助も手製だという。模型作りの材料と塗料で仕上げるのであろう。文化会館へ玉栄丸とともに寄贈するほどだから多くの人にも差し上げた。「8万円ならこの模型あげてもいいが。」と冗談をいって笑う。
 大変器用な人である。模型の隅々まで心が配られている。ほこ漁の名人は趣味の模型作りも専門家の域に達しているのである。

 ウ 漁場の地形と潮流

 三瓶の地質・地形は専門家の世界では大変貴重で面白いといわれる(⑦)。須崎観音が鎮座される須崎から周木にかけての地層は教材としても価値が高いとも記されているが、ここではこのことは触れず将来の地域開発にゆだねたい。
 三瓶町の背後は、それほど高くはないものの、400m前後の山系がびょう風のように連なって海へ迫っているので、急斜面を流れる河川は勢いよく岩盤表層を削りとって河口へ運んだ。水系の主な三つのうち朝立川と津布理川は三瓶湾へ、三島川は蔵貫湾へ支流河川の水を集めて流れこんで平坦地を作ったのである。
 頃時鼻(うどのはな)・須崎・赤崎・辰ヶ崎・枯井崎・泊崎などは、かつての尾根が海上に残ったもので、その海面下の延長部が「瀬」になって広い好漁場を提供している。
 また、平均水深約90mの豊後水道全域の中では、佐田岬半島先端部の等深線の混み具合に比べて、三瓶湾周辺の豊後水道東部は水深60mまでの浅い海底が広がっている。
 **さんの建網漁が佐田岬半島岬端部の水深50mまでとすれば、**さんのほこ漁5m前後の漁場とはほぼ同じ海岸沿いである。串の海士たちは、通常20・30mの素潜(すもぐ)りであるから、長い半島の沿岸に沿って自らの手によって採貝し、**さんは腹ばいの船上から竿で漁をするという構図ができあがる。さらに、塩成までとする**さんのエリアは決して海士の領域を侵(おか)さないのである。
 豊後水道の海底地形を特徴づけるものとして海釜(かいふ)(*17)がある。
 佐田岬半島の延長の200m等深線で示された部分で最深部の水深は365mあり、海釜は岩盤が露出しているという(⑩)。
 この二つの海釜の長軸方向に移動する潮の流れは大潮時には最大流速5㌩(時速9km)に達する早いものである。この潮流によってふるいわけられた海底は宇和海沿岸地域を沖から陸に向かって、礫→砂→泥の底質を示す。
 従って、佐田岬から三瓶にかけての宇和海は、汀線近くの岩石海岸から水深60m前後の泥質地帯であり、塩分が濃く透明度の高い海域である。
 藻場が発達し、魚介類も豊富できれいなこの宇和海沿岸地域は佐田岬沿岸地域とともに愛媛が誇る美しい景観でもある。

 エ **さんと季節の生きもの

 **さんのほこ漁は季節によって陸(おか)回りと沖とになるようだ。冬場は沖が多い。カワウソに出会ったという。
 「あれは父親連れて行って、3月1日やったな。とも押し(*18)がおって、わたしゃ前じゃけん、『ひかえ、ひかえ(*19)』いうて、漁(りょう)のおる筋追うて(獲物のいそうな場所伝いに)、この筋追うたらタコがおる、この筋追うたら魚(いお)がおるいうのが分かっちょるけんな。カガミこうやったら『おーっ、あれ何ど!』ここから玄関くらい(約5m)のとこじゃった。『おー、おやじ、イケマ(生間、いけす)見てみい、魚(いお)おるか?』カワウソ化かすんじゃけんな。いけす大丈夫じゃ思うたら、カワウソがすーと潜んで。『おーっ、どこいったんじゃろ?』。全然見えんということは、どこかにべたーとひっついたんやな。もうおらんのよ」。カワウソが化かすというのが面白い。くわえていた魚を、とっさに、自分のいけすからやられたと思うわけである。どこか三波春夫に似た所作をする。三瓶の三波春夫さんといわれるらしい。
 「狩江(カリイとなまる)行った時じゃな。陸(おか)回りしよってな。湾から湾へ行ったのよ。淋しいとこで人家は四・五軒しかなかったな。わたし1人よ。ヨセの木(ヨシ)のとこからドボーンと飛びこんでな。『おーっ』とエンジンじゃけんな。追うたらシューと潜んで、速いですよ。1時間ほど追っかけたが居らんようになってな。」夜、あかりをつけての漁では大変淋しいという。カワウソの眼があかりで光るということである。
 「ハクビシンは捕ったな。1か月魚やって飼うて。先生とこへ教材にならんか持っていった。ガツガツいうて箱破ってな。先生上手にやらんけん犬にやられた。」「あれはツメが強いですぞ。眼が強うないで、追いつめてイケスに入れてな。ガツガツかむもんやから船が沈んだらいかん思うた。」と笑わせる。ハクビシンも夜行性である。
 そのほか、小高島のタヌキや福島の白うさぎなどいろいろ出会った動物がいる。須崎のウオツキ保安林については、山が反射して海に影を作ると魚が安心して来るということやなと説明があった。
 **さんは動物だけでなく、花もかわいがる。アンズの花が咲いたらボラをとりに行く。漁は陸の花を見て行くという。「日記に何月何日じゃいけませんぞ。」と力説する。去年の日記をめくって漁の準備をするのでは駄目だというのである。「そりゃ昔からいうでしょうが、山が赤うなったらハランボ・イトヨリ・タイ、山が青うなったらアジ・サバなんかの青ものよ」。誰かに聞いたような気もする。要するに漁も自然の営みだから、季節のうつりかわりをよく見てやれという。**さんの漁師哲学である。
 夜空の星で小学校のときから時刻を知った彼は、今や月の欠け具合・雲の流れ・ほほをなでる風(出かけていても引き返すという)・周囲に咲く花・山の色と、まわりのすべての自然が一体となった漁をやっているのだと感心する。64歳のほこ漁名人に拍手を贈る。


*16 早朝に山から吹きおろす陸風で、帆をいっぱいに張ればかなりの船速がでた。
*17 円形、だ円形または三日月型をした海底の凹地。
*18 ともは船尾のこと、ろをこぐ人は船の後方にいる。
*19 ろを于前に引くこと、船首は左に曲がる。

写真1-1-16 ほこ漁の道具

写真1-1-16 ほこ漁の道具

平成4年8月撮影