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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)三瓶のくらしと水

 ア 権右ヱ門(ごんえもん)さんの井戸

 **さん(三瓶町朝立1区 大正6年生まれ 75歳)
 **さん(三瓶町安土   大正10年生まれ 71歳)
 **さん(三瓶町朝立2区 大正11年生まれ 69歳)
 **さんは朝立(あさだつ)2区の商家「宇井商店」で9番目の子供として生まれた。兄弟姉妹合わせて12人いた。屋号の宇井商店は生家と、父親の妹婿の姓からとったもので、幅広く商品を扱い現在のマーケットに当たるものだった。生活用品は何でも揃っていたし、肥料も卸売りしていた。物心がついた時には叔母の家に居た。19歳で結婚するまでは殆ど叔母との生活であった。
 昭和7年に肥料屋さんがつぶれ、あおりを食って宇井商店も倒産したが、お得意さんの厚意で山下高女を卒業することができた。     
 **さんの祖父は金持ちで、どこへ行っても麻紐のついた布財布(ぬのざいふ)を肌につけていた。山を買っても現金取引きをした。
 その祖父が七・八年かけて掘った井戸が今も残っているとのことで、早目に切り上げて**さんと3人で生家を訪ねた。
 **さんは手配よく写真撮影の準備をして待っておられた。
 「今でも使っております。水が冷たいので。」という井戸には手押しポンプがそのまま残されており、昭和17年ポンプ設置の鉄板が埋め込まれている。
 「深さが7間半(13.5m)といわれておりますので、危険ですから井戸のふたは重くしてあります。」といわれる鉄板のふたは片手ではびくともしない。動力ポンプが備え付けられ、パイプは厚い壁を打ち抜いて中へはいっている。昔使った滑車とロープが保存されていた。戸袋の横には「孫が修学旅行のお土産に」と買って帰った滑車のつるべが掛けられ、「こんな感じだったでしょうか。桶の形もそっくりで。」といった気の配りようである。
 さすがに立派な井戸で、汲み上げはつるべ→手押しポンプ→動力と三代変わったものの、冷たいおいしい水として今も生き続けている。干ばつがあっても7間半のこの井戸はかれることがなかった。それまでは、近くの竹やぶの下にあった小さい井戸まで行って担って運んだのだという。
 「三瓶は水が豊富で恵まれていた。」と皆さんがいわれる。「宇和が時間給水しても、三瓶はそんなことはなかった。」ともいう。昭和を生きてこられた3人の女性の時代には各地区に比較的早く水道施設ができていたのである。三崎町串地区とは対称的だ。
 **さんは八幡浜の出身で、昭和5年に近江帆布が三瓶へ進出した時に引っ越してこられてからの三瓶人である。
 「うちは第一水道組合で尻谷(しりだに)水源地から水が引けました。昭和27年(1952年)に三瓶町の上水道ができましたが、それまでは水道組合(簡易水道)の水でした。井戸もみね子おばさんとこの横のたんぼにありました。」といわれるので、天びんで担うような苦労はなかったかをただすと、「風呂水は天びんで担うて運んだ。重たかった。」と**さんはいい、「洗濯は女学校(現三瓶高校)の出口の所へゆすぎに行ったんですよ。水道の水ではゆすげんのよ。」という。洗濯は洗い三分濯ぎ七分だと教わる。
 **さんと**さんは仲良しである。年令こそ二つ違うが同じ山下高女の先輩後輩で、戦中の結婚も**さんは19歳で父親の親友の息子さんと、**さんは20歳でやはり父親が認めた軍人さんと結婚した。当時は23歳では遅いといわれ、「それ行けやれ行け」の結婚であったという。**さんは昭和15年、**さんは昭和17年である。
 **さんは女学校を出るとすぐ、**さんの叔母さんから半年間「みっちり、ていねいに」和裁を教わり、10月から2年間東京へ行儀見習いに出た。三瓶町出身の、関東大震災の復興係や後年横浜市の助役をされた方の奥さんから礼儀作法を見習うものであった。昭和16年11月に三瓶へ帰り、翌17年の結婚で、顔さえ知らぬ人のもとへ「今、軍人を嫌ったら国賊じゃ。早う行け。」という父親に素直に従ったという。
 翌年の昭和18年5月、ご主人の任地満州へ渡り、19年7月沖縄へ任地替えになったため、19年9月三瓶へ4か月の身重のからだで里帰りとなった。ご主人は昭和21年1月に復員されたが片足がなく、相模原市の国立病院に収容され、23年9月に余病を併発して亡くなられた。**さんが25歳の時である。「結婚生活は1年3か月ですが、実生活は1年。子供は1人ですけど孫は3人います。」とにっこりされるが、その間は大変な暮らしであったようだ。
 「息子が高校出るまでは生家の両親が面倒をみてくれました。ちょっと派手な姿をすると後ろ指をさされるので、地味で控え目な生活でした。」といい、「夫が亡くなる前から和裁を本職として働きました。今も続けておりますが1日に20時間働いたこともあります。高校時代に息子が『母の寝ているところを見たことがない』と何かに書いたこともありました。」ともいわれるのであった。仕立て物で生計を立て、立派に育てた息子さんに今は可愛いい孫も3人できて心豊かな暮らしをされている。この4月まで、15年の長さにわたって三瓶町の母子福祉会長も務められた。人望の厚さを知ることができる。

 イ 水道株とアメリカ移民

 **さんの生家には水道株があった。第一水道組合のもので、三瓶町が上水道を布設した際に町が買い上げたから現在株を持っている人はいないという。上水道は昭和27年(1952年(⑥))とあり、それまでは水道組合と井戸に依存していたことになる。さらに、この地域は企業進出が盛んで、昭和の時代はその初期から工場用水の供給等と併せて「水の安定供給」が図られ、西宇和郡内では比較的早く生活用水の確保ができていたと思われる。
 「大正屋さんがアメリカから帰って水道を引かれましてな。」という**さんは、**さんのお兄さんの嫁、つまり義姉である。そして、大正屋のおじいちゃんこと井上政治さん(故人)は**さんと縁続きになる。
 八幡浜出身の**さんには向灘に西本さんという伯父がいる。その西本さんはアメリカへ移住して、八西地域のアメリカ移民(密航が多い)の世話もしていたようだ。現地で兄弟のように付き合っていた井上政治さんが帰国して、ふる里三瓶で大正屋の店を出した。帰国してからできた大正屋の2男のところへ**さんの妹さんが嫁いでいく。山下高女時代には大正屋の斜め向かいに住んでいたので、**さん姉妹は店へ出向くことも多く、記帳を手伝ったこともある。娘のない大正屋さんには、西本の伯父のこともあり大変大事にされたという。大正13年生まれの、義理の弟さんから割り出して、大正屋さんが水道を作ったのは大正12・13年頃だろうということになった。佐田岬半島随一の文化地域を誇った三机(③)が、同じくアメリカ帰りの山本安吉さんによって昭和の初期に水道を引いた(⑤)とあるから、ほぼ同じ時期にアメリカ移民による水道布設が両地域にあったことになる。
 当時のアメリカ移住(及び密航)は決して「口べらし」ではなく、裕福な百姓になりたいという目的であった。「1万円を目標に」「なるべく早く金を貯えて」という出稼ぎ型であり、数年から10年くらいで殆どの者が帰国しているという。男子工員の年収が150円そこそこの時代であるから、三瓶出身の宇都宮重太郎さんのように、渡航後10年で12,355ドル39セント、円に換算して約26,346円の稼ぎは実に男子工員の175年分に当たる金額である(⑦)。
 三崎半島地域民俗資料調査報告書によれば、三机飲料水組合甲種組合員名簿で65名(最初に金を出して作った人の名簿)・後から加入した人の名簿で148名を数える。三瓶町においても、アメリカ帰りの大正屋・井上政治さんによって作られた第一水道組合に加人した家がそれぞれ1株ずつ水道株をもったものであろう。
 それにしても、三瓶といい三机といい、進取の気性に富むアメリカ移民が帰郷してやっと水道布設に取り組まれたわけであり、強力なリーダーシップと莫大な資金を要したとはいえ、長年月よくぞ耐え忍んできたものである。こうして乏水地域佐田岬半島は、期せずしてアメリカ移民の力によって「生活用水の確保」が前進することになった。

 ウ コギトの泉

 山下高女の昔から、校庭の一隅に滾々(こんこん)と湧く清冽(せいれつ)な泉あり。乙女らは、藤棚の蔭、一掬(きく)の水に喉(のど)をうるおし、しばしの安らぎを求めた。……コギトの泉は学園の象徴となり、人々の心に深く浸透していった。
 これは、三瓶高校創立60周年記念事業として記念館の人口につくられたコギトの泉の撰文(せんぶん)の一部である。
 「女学校にはコギトの泉がありました。水が湧いとりました。」と口をそろえていわれる**さんと**さん。乙女の時代のシンボルであるという。いま、立派に復活して常時きれいな水が流れている。大雨が降ると後背地の山から鉄砲水が濁流となって襲うことも何度かあった。学校のグランドより高い天井川から度々水があふれた津布理一帯は伏流水の豊かなところでもあった。横を流れるこの谷道川周辺の地下水は町民の水源として長い間役立ってきたのである。
 コギトの泉の前には女学校創設者である山下亀三郎氏の胸像と御母堂敬子刀自(とじ)の遺影が掲げられ、撰文が刻されている。どちらも池田三男氏による撰文である。
 山下翁の業績をたたえる一文の後に「良妻賢母の育成をもって、慈母への感謝報恩の記念とし、あわせて地方文化の向上に寄与せんとした」とある。
 山下高女の卒業生はこの建学の精神を受け継ぎ、立派な良妻賢母として生きてきたと**さんや**さんにお会いして思う。
 若い頃の楽しい想い出を尋ねると、お二人とも女学校の修学旅行だといわれる。それも京都や奈良の見学ではなく、山下汽船の紹介でかなえられた日本郵船の新造豪華船「鎌倉丸」の見学(**さん)であり、須磨の山下家別荘での歓待(**さん)である。山下翁は郷土と郷土の人を大変愛された方だったとしみじみ語られるのであった。圧倒されるような豪華さで、ふる里の乙女らは夢心地であったという。

 エ 朝屋の海中井戸

 **さん(三瓶町朝立2区 大正14年生まれ 68歳)に話を聞く。
 「新地の井戸というのは明治の何年ですかねえ。朝屋新地が埋め立てされたときには朝立に井戸は全然無かった。ほいでー(それで)何度か井戸を掘ってみたが出なんだんですよ。何度掘っても出んから『どうせのことなら掘りついでに海掘ってみんか』ということになって……。人が笑うたらしいですよ。それいうのがねえ。」と、ゆったりとした口調で語る朝屋銀行の頭取朝井猪太郎さんは**さんの祖父の長兄で、地域にも大変貢献した実業家である。
 「このおじいちゃんは何でも『試(ため)し』をする人で、せんことにゃ成功せん。人がせんようなことをせにゃ成功せん。いっそ出んのなら海の中へ掘れ。」という鶴の一声で井戸掘りが決行されたのである。既に6,000坪の朝屋新地は完成していた後のことである。
 「朝屋新地の南の端であるわたしとこと道路が角(かど)になっとったんです。ほいで、道路から1間、北側の角から1間、東側からも1間離れたところヘポイントを置いて、そこへ『ヤレコラヤレコラ』いうて掘る突き抜き井戸ですねえ、石をぶっつけてやる土台づきのですねえ、あの式の井戸ですらい。」
 朝屋の猪太郎さんの命を受けて、銀行の番頭である源さんが担当したという。
 「やってみたところ、ちょうど12間(21.6 m)掘ったところに岩があったんですよ。その12間までは砂ですらい。『ボスボス入るぞよ、どこまで行くかわからんぞよ。』いいよったら12間のとこに岩があったんですよ。岩盤があったんですねえ。ほいで、岩盤に当たったもんじゃから、『この岩盤を割ったら水が出るかも知れんぞよ。』というので『ソーレヤレーアーレヤレ』で岩盤を突き抜けたんですよ。そしたらズボーッと入ったらしいですわい。ほして、井戸の縁(ヘリ)のところを割ったら二・三間入ったんですと、ズボズボと。ほいで、これはどうも岩盤が割れて隙間からかどこからかわからんけど入りだした。そしたら、汲んでみたら水が出だしたと。」ここまでは「ボスボス」になったり「ズボズボ」になったりするが一気にしゃべる口調に力がこもり、思わず身を乗り出して拝聴する。
 「みんなが馬鹿のカワ(馬鹿にというのを南予ではこういうときもある)にしとったのが、水が出だしたもんじゃから、掘った源さんが走ったらしいですらい。『大将-!』いうて、『旦那さーん!水が出ましたぞ!』いうておらび(叫び)ながら走ったそうですと。ほいで、海の中へすぐやったら(施工したら)いけんから、ここも埋め立てよ。埋め立てて、井戸枠をして水(海水)が入らんようにせよというので、井戸枠をきちーんと、素焼で焼いたやとよなぁ、中へ入れてだんだん下から積み重ねて、3間くらいのもんやからねえ、水が入らんように井戸枠を作ったんですよ。そして、その周りを埋め立ててわたしんとこの土地ができたんですよ。」
 以前は天水を集めて使っていたという。「あのお宮(一宮神社、今は合祀して国造神社)の上のみかん山へ大けなタンクを作って」貯水していた。三瓶町には水道が無いので、「ヨーシ!朝屋新地には水道を回すぞ。」とコンクリートの水源池を作り、三瓶で一番先に2区へ水道を引いたという。「だから2区には昔から水道があったわけなんです。三瓶町がやる前に2区の水道組合ができて、わたしとこらも使いよった。」とのことである。
 三瓶町誌(⑥)人物編によれば、「嘉永4年(1851年)卯之町の酒屋で父又太郎の長男として生まれた猪太郎は、明治初年に一家が朝立に引き揚げ、運送業を営んだ商魂たくましい父の指導のもとで商売の厳しさと商人としての生き方を身につけた」という。
 事業熱に燃える氏は明治26年(1893年)当地としては最初の金融機関朝屋銀行を創立し、自ら頭取となり取締役に弟の嘉平と忠次郎(**さんの祖父)を当てたとある。42歳のときである。
 明治39年(1906年)に「朝屋新地」を作り、朝屋新地貸し付けに関する三条件を発表して応募者を受け入れ、豪荘な建物の建ち並ぶ華やかな商店街の核を形成したが、海の埋め立て地であったので飲料水には一段と苦労されたようであると元中学校長井上幸恵(ゆきしげ)氏は述べている(激流に生きた人々 愛媛新聞 昭和43年5月24日版)。当時の一大事業の一環として井戸掘りを構想したものと思われる。

 オ やかんに霧が吹いてな

 前記の井戸を紹介した**さんと**さんは語りの中で「冷たい水が欲しいときは、朝立2区の朝屋旅館の横にポンプ井戸があったので、大きいやかんを持って隣近所の人はみんな行ったんです。」といっている。海の中に猪太郎さんが掘らせたその新地の井戸も今はない。
 「うちの角(かど)へ井戸を掘ってからというものは、とても冷たいんで2区の人がみんな井戸水を汲みに来だしたんです。自分んとこで氷もいらんでしょ。ほしてねえ、おいしいんですらい、また井戸水が。井戸水を汲むのに列ができたん(早口でしゃべるときは「です」が省略される)。やかんを持って順番でねえ。汲む人は汲む。順々に『ええ、次は誰?』いうて。みなが『新地の井戸はうまいわい』いうて井戸水を使うたん。水道は来ているけんども、井戸水やったら直接冷たいけん。年間10℃くらいなんでしょ?冬も夏もね。どんどん水湧くんですけんな。」「夕方になってやかん持って帰りよるとな。冷たいもんやからやかんに霧が吹いてなぁ。」
 「うまいんですよ。水がうまいんですよ。水道よりもしっかりおいしいけん。あらい(鯵(あじ)のあらい)するときは『ポンプ汲めえ!』いうて、井戸の水であらいしょったんですよ。今は水道の水使うけん(あらいが)おいしくないんじゃなかろうか。『一味(ひとあじ)ちがう』いうくらいにおいしかったんですよ。」と水のおいしさを強調される。
 「現在は(井戸は)わたしのところに取り込みましたからね。朝屋の井戸じゃいうので、近所の人にも了解を得て、空気抜きだけ入れて上はつぶしてしまいました。神主さんに『きれいな石を拾うてきなはい(きなさい)』といわれて、周木の池の裏から飾りにしてもええような石を三つ四つ拾うてきてぱーんと入れてな、ご祈(き)とうしてもろうて」という。新地の井戸の上に、今は近代的なホテル朝屋が建っている。

 カ トッポな水のはなし

 **さんの話は面白い。ホテルの前には豪華な遊覧船やら釣り舟やらを数そうつないでおられる。昔から釣り舟の世話もして、潮汐や魚の生態にも詳しい。
 「その時分、永長(ながおさ)(宇和町永長)の人が来ましてね。『ここは海の中やった筈じゃが、ここに井戸水が出ますか?』いうので、ここらへんの水は今潮(しお)が減(へ)っとるけん少ないんじゃがいうたら『あぁ、やっぱり海岸じゃけん、ここもそがいなりますか?永長の水、お月さん(満月)の出には高うなりますよ。月が上にある時は2尺(60cm)くらい違う(水位が下がる)』いうので、『宇和でそんな馬鹿なことあるかい。宇和の水がそがい上がり下がりすることがあるかい』いうたら『お月さんが西へ下(さ)がったら2尺くらい上がる。出しなと入るときゃ2尺くらい上がる。雨なんか関係なしに上がったり下がったりする』いいましたわい。月の出・月の入りは満潮ですけんな。『うーん、うそやろがな?』いうたけど、それはあるのが道理じゃ。三瓶の水は宇和の水と続いちょるがじゃけん、水圧で、満潮のときには宇和の水も水位が上がるらしい。山田(宇和町)の人に聞いても、山田もやっぱり水が上がったり下がったりしよる。特に満月の時に。」という。
 堂所山(593.2 m)が宇和町西山田分にあって、宇和町との境界では最も高く、山並みは三瓶町を囲むように南西に向かって、町内最高峰である御善所の森(506.4 m)から直線的に伸び、皆江の奥から西に向きを変えて大崎鼻へ連なる。300~200m級の山が多い。三瓶町を囲むもう一つの山系が北から西を回って穴井・垣生・二及から須崎に向かうものである。
 宇和町の山田はこの山系を隔てて三瓶町に接し、永長は宇和平野を挾んで隔離された地域であるから、地形の上からは多少無理があるものの、地下の水脈が連続しているという発想は面白い。次の話はもっと科学的である。
 「潮が満ちたときには水位が上がるんですよ。」「ええ?」という聞き手に「井戸水はあんた、海岸のやつは上がるんですよ。1間(いっけん)以上違いますよ。海水と同じに。」「海水は混じりはしない?」という問いに、「混じらんですよ、水圧で上がるんですからね。チャポーンいうて、そこへ届くくらいに。高等学校の水も二・三べん押したら、あと汲まんでもダクダクダクダクいうて出るんでっせ。『どうして?、汲まんでも出るんじゃが。』いうて生徒らたまげよった。『今満ち潮じゃけんのう、圧力で出るんよ。』いうたら『ああ、そうですか』いいよった。先生らはまだ(もっと)不思議に思いよった。」と。

 キ カイコの棚が13段

 **さん(三瓶町蔵貫浦 大正6年生まれ 75歳)
 蔵貫(くらぬき)の**さんは農業委員会長のあと現在は土地改良区副理事長をされている。三瓶の農家を代表されるというよりその道では南予の代表格である。
 「蔵貫で今日井戸掘りをしておるらしいのよ。」という**さんの話を小耳にはさんで、昼食をご馳走になったお礼もそこそこに車を走らせたとき、探しあぐねて稲刈りのおじさんに声をかけたら、**さんであった。2度目である。
 「さあ、何処でしょうな。わたしは聞いておりませんが」と腰を伸ばして汗をふかれるお顔は色つやはよいがどこか淋しげに見える。
 「息子を亡くしましてなぁ。嫁と孫2人残して死んだもんじゃから、仕方がありませない。1人で農業やっとりますのよ。」といわれた1回目の聞き取りが思い出される。周囲のたんぼはどこも複数でにぎやかなものだから余計に淋しく映る。
 「普通温州・わせ温州・ニューサンマと伊予柑を合わせて1町2反のみかんとなぁ、たんぼも稲作で四・五反やっとります」という**家には、97歳の母親・奥さん・お嫁さんと孫の2人(高2女、中2男)が一緒に住んでいるが、男の働き手はない。            
 **家は昔から蔵貫の素封家(そほうか)である。**さんのお父さんは、寺小屋で4年生まで勉強され、地元では「優秀な人で通り、部落で1・2を争う人格者。」であったという。家業は農業であるが、木ろう・養蚕もやっている上に家畜商も営み、何人かの人を雇っていた。
 「父親は躾(しつけ)の厳しい人でした。母親はやかましい人じゃありませんで、躾は専ら父親でした。子供は父親が育てたようなものです。」という。「小学校2年の時に自転車を買ってもらいましてなぁ、近所の子供らも乗って遊んだもんですが、県道ができた時に海へ落ちたりしまして。」という大正末期には、子供の世界で自転車は珍しいのである。小学校5年のころに靴も買ってもらったというから、子煩悩(こぼんのう)な父親でもあったようだ。
 恵まれた家庭で坊っちゃん育ちかと思ったら「そんなことありませない。厳しい人でしたからな。」と否定する。つらい思いをしたこともあるといってこんな話をしてくれた。
 「女を四・五人雇うておカイコさんをやっていましてな。2時ころ起こされて桑摘みによう行かされました。夜中に起こされるのはつらかった。カイコの棚が13段もあって、それに全部桑を食べさすので大変でした。あのころはランプの生活でしたなぁ。」という少年時代の**さんは、父親に似ず背丈が低いほうで、カイコの棚に苦労したようだ。しかし当時は繭の値段もよく「俵津製糸から買いに来よったが、春1,000円秋1,000円の収入は大きかったですよ。みかんが貫5銭くらい、労賃も男で日が60銭、お酒1本が60銭でしたわい。」という。
 「牛も飼っていたので、ハメキリ(押し切りともいう)で草やわらを切って、えさをやりましてな。チガヤはええんですがシノガヤでよく手を切りましたわい。『しゃんと握らんけんじゃ』とおやじによく怒られましたな。牛の『鼻やり』は体格が小さいもんじゃけん大変で、なかなかいうこときいてくれなんだ。」といわれる。
 カイコや牛の世話は子供の大事な仕事になっていたのである。高2の時「高3へ行け。」ともいわれたが、あまり勉強は好きでなかったので家の手伝いをすることに決めたという。
 「みかんに切り替えたのは遅かったなぁ。俵津の姉婿にすすめられて苗木を取り寄せたんじゃが、遅くまで桑畑が残っとったけん」とのことであるが、後継者がないので大変らしい。「息子は農協に勤めとってな、技術の関係におったんじゃがよう世話する子でなあ。その日も疲れとるのにみんなを送って行って、あと急に苦しみ出して亡くなったんよ。平成元年の1月9日に急性心不全でな、39歳よ。」と残念がる。
 **さんの案内で、小雨の中蔵貫のかんがい用水(写真1-1-9参照)を見て歩く。
 さすがに自給自足の村といわれるだけあって、三島川の水量も豊かであり、少しせき止めれば、きれいに作られた水路へ水が引ける。稲の出来もよい。
 「三島川は水量も多く、蔵貫村・蔵貫浦は水に恵まれた所です。宇和の極山(ごくざん)周辺の水が流れてきて水に不自由はしません。水源池(打ち抜き井戸)も3か所ありますが、水田へは個人でせきをこしらえましてな、水路からたんぼへ水を引けましたのよ。三瓶町が合併後に川の南へ水源池を増設してくれましたのでな、みかん山へも引いとりますのよ」といわれる用水路は、整然と区画されたたんぼに沿って立派なものである。
 三崎から三瓶にかけての範囲では、目を見張るような「こめどころ」である。イネの品種は聞きもらしたが、9月17日に訪れた時が稲刈であった。みかんの収穫期に合わせて早めにできるものであろう。いかにも豊かな農村という風景で、訪ねた両日とも「スズメ追い」の音が間欠(かんけつ)的に谷間にこだましていた。自動装置である。
 佐田岬半島の岬端では、まるで雨水をてのひらで受けるような水不足の印象が強く昭和の時代が水との闘いであったのに対して、河川の集水量も伏流水も豊富な地域を湾奥の蔵貫に見たのである。

写真1-1-9 蔵貫水田地帯の水路

写真1-1-9 蔵貫水田地帯の水路

平成4年8月撮影