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愛媛学のすすめ

都市を耕す楽しみ

 これまで「考える会」は82回の研究会を開催しました。すべて市民に公開しています。研究会の開催日は、創立当時から月1回、第3土曜日と決めています。
 発表者(外部講師の招聘もあります)の持ち時間は2時間です。発表方法はさまざまです。スライドを100枚以上も用いて絵画論を展開する人、外国人とチームを組んで共同発表する人、長年収集した玩具や錦絵をまじえて郷土玩具論を解明する人、貴重な文献や古地図を示しながら講義をする人、記録映画やビデオを取りいれて研究を補足する人、じつにバラエティにとんでいます。どの発表者もそれなりの周到な準備をしてきます。
 横浜学の醍醐味は、会員一人ひとりが、自らの自由時間を上手に活用して、「都市の見えざる構造」を読み解く作業(耕作)にあります。この作業には華やかさはありません。しかし、横浜が何ほどかの文化や個性を主張しようとするなら、どうしてもこのような地道な作業を欠かすわけにはいかないものです。都市の文化や個性、つまり、都市のアイデンティティとはこうした作業の積み重ねから生まれるものです。都市の価値とは、一過性のイベント騒ぎや珍奇な建造物群では決して計れません。都市の大小にかかわらず、一人ひとりの発信するメッセージがゆたかな都市であればあるほど、その都市はアイデンティティ・クライシスから逃れられるのです。
 いまここに「考える会」の82回の研究会(公開講座)の一覧を掲げられないのが残念ですが、それらのなかから、ユニークな研究を少し紹介してみましょう。
 第18回と28回はレクチャー・コンサート。チェロやハープの演奏をまじえ、開港当時の外国人居留地の横浜の音楽事情をさぐりました。
 第6回・20回・60回は、講義と鑑賞ということで、横浜ゆかりの画家についての研究発表と個々の絵画についての丁寧な解説がなされました。
 第40回は横浜の運河の研究です。丸2年かけた調査研究で、さまざまな古地図・絵画・写真をもとに現況を報告しながら、横浜の運河の変遷をたどりました。
 第51回は、50回の生糸と外商の研究につづいて、群馬県に泊まりがけの研修に出かけました。現地の史家の講義を受けたあと、富岡製糸場や史跡を訪ねました。
 第55回は、明治初期の横浜で発行された英字新聞に見える広告を研究し、当時の外国人居留地のビジネス事情を読み解きました。現代の広告事情との比較も興味あるものでした。
 第68回、台湾の研究者を迎えて、長崎・神戸・横浜の中華街形成史の講義です。それぞれの街の特徴をスライドで再現しました。また、80回は、横浜生まれの華僑の2世による横浜華僑の100年史。父親の歴史をふくむ自分史でした。
 第26回と70回は路上観察学。幕末・明治の横浜の面影を名ガイドつきで訪ね歩き、変貌する都市を注意深く観察しました。
 第75回は大衆演劇論。講義のあと、横浜最後の大衆演芸場に出向いて観劇を楽しみました。
 第79回は、関東大震災のとき横浜港に停泊中だった東洋汽船コレア丸の研究から発展して、今後大地震がおきたら、市民はどう対処すべきかという切実な問題までにおよびました。
 会員は必ず一度は自分の研究成果を発表することを原則にしています。もちろん、事務局長の私といえども例外ではありません。私の場合は、第24回に「夏目漱石と横浜豪商の子息たち」、また、第76回に「渡辺多満の生涯-フィランソロピーの原点」というテーマで発表しました。前者は、ロンドンにはじまった漱石と横浜の実業家の子息たちとの交遊史を調べたものです。後者は、横浜の社会事業や女子教育の育成に力を尽くした女性・渡辺多満の生涯をフィランソロピー(社会貢献)という現代的視点から再検証を試みたものです。
 前に述べましたように「横浜学」を提唱した直接の理由は、会社設立時のあの個人的なカルチャー・ショックにありました。9年経た現在でも、私はそのショックから完全に抜けでられないでいます。しかし、そのことは、私にとっては、横浜という「地域」を発見する絶好の機会になったわけです。さらにいえば、私自身が、独自に「横浜を楽しむ方法」を編みだす道筋であり、「都市とのつきあい方」を探究するプロセスでもあったわけです。