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愛媛学のすすめ

横浜学は動きはじめた

 そこで、「横浜学」という言葉を共有する「横浜学会」という新しい組織をつくり、多くの市民に都市横浜の諸相を研究してもらったらどうかと考えたわけです。定期的に研究会を開くことによって、さまざまな分野の人たちの話がじかに聞けて、私の疑問が氷解するのではないかとひそかに思ったからです。
 こうして、私は1984年の春、ソーシャル・ムーブメントとしての「横浜学」と「横浜学会」を提唱しました。そして、その年の10月、横浜の生き字引といわれる多くの人たちの協力を得て、市民の手作りによる「『横浜学』を考える会」(服部一馬会長)は誕生しました。会の名称は「横浜学会」とせず、「『横浜学』を考える会」としました。発起人たちの間に私の意図する横浜学という学びの領域が成立するものかどうかという疑問があったからです。
 ところで、私はこれまで何のことわりもなしに横浜学という言葉を用いてきましたが、私の横浜学は長崎学にヒントを得ています。そこで、私と長崎学との出会いについてふれておきます。
 東京の出版社時代の1980年頃、私は19世紀の初頭に日本人の手で作られた本邦初の英語辞書の復刻版を刊行するために、よく長崎に調査研究に出かけました。また同時に長崎の歴史と文化を知るためにたくさんの書物を読みました。なかでも、長崎の在野の研究者・古賀十二郎(1879-1954)の著書には感銘をうけました。古賀には、『長崎市史(風俗編)』『西洋医術伝来史』『長崎と海外文化』『長崎絵画史』などの著書があります。古賀はゆたかな語学力を駆使して対外交渉史の分野を切りひらいた人物です。古賀のすぐれた業績は、郷土史や地方史のわくをこえて高い峰々をなし、中央の研究者たちに強烈なインパクトを与えました。これが「長崎学」というものです。古賀の研究の特徴は、長崎文化の探究にあたっては、日本文化史ばかりでなく、広く世界文化史の視座からも検証すべきだというところにありました。私は、長崎学からただ単に言葉のヒントを得たばかりでなく、ものの見方-外から都市を見る眼の重要さということも学んだのです。いずれにしても、長崎学に出会わなければ、私は新会社設立時の多忙なときに決して横浜学などと口ばしることもなかったろうと思います。