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愛媛学のすすめ

*俳句とホスピタリティ

池内
 地元のマスコミにもそうそうたる方がたくさんいらっしゃるんですが、私ごときが、なぜ今日呼んでいただいたのかと思って考えておりましたら、たまたま松山で、今日から新聞大会というのが開かれて、偉い人がみんなそっちへ行ってしまっているので、それで私のところへお鉢が回って来たのではないかと思っているんですが、それはそれとしまして。さっき司会の方からも御紹介いただきましたように、私どもは「愛媛人その風土」という、言ってみれば愛媛の人間とは何かということをずっと追求してきた番組を、15年以上にわたって作り続けておりまして、随分たくさんの方々を取り上げたわけでございます。ここにいらっしゃる中でも、伴野先生と常磐井先生にはもうすでにその番組に御登場いただいておりまして、そのうち讃岐先生の所にも、お願いに行くだろうと思いますので、またよろしくお願いします。
 そういった番組作りなどを通して、私なりに、これはマスコミとか何とかということではなくて、愛媛に住んでいる者として考えております愛媛らしさと言いますか、私はあえて愛媛の良さとか、愛媛の素晴らしさというふうなことで申し上げたいと思うのですが、一つは私はいつも思っておりますのは、排他的という話もあったのですが、来た人に対してはやはり親切な、もてなしの心と言いますか、温かくもてなす気持ちというのが、伝統的に愛媛にはあるのではないかということを、感じております。
 英語であてはめますと、ホスピタリティというふうな言葉になるのではないかと思うのですが。それでなぜそういうものが愛媛にあるのかということを考えた場合、私は二つのキーワードがある。一つはお遍路だと思うのです。それからもう一つは俳句だと思うのです。
 お遍路というのは、御承知のように、心や体を病んだ人々が、四国という島を巡りながら、その心の傷やあるいは肉体的な傷を癒(いや)すという事を目的に、弘法大師が作ったと言われていますけれども、非常にハードウェアとして、素晴らしい仕組みだというふうに思います。それではなぜお遍路というものが四国にできたかと言いますと、やはり四国が島国であったということ。つまり、かなり日数はかかりますけれども、ぐるぐる回っていくことができるという、この島という構造。
 もう一つは、さっきの米地先生のお話とも関連しますが、非常に暖かいところであった。これは大変米地先生には申し訳ないんですけれども、もしみちのく八十八ヵ所というのがあったとしたら、たいがいお遍路さんは冬の間に凍死してしまいます。四国は、幸いなことに、海岸沿いに歩いている限りは、まずお堂の中あたりで野宿をしても、真冬でもまず凍死する恐れはない。そういうあたりからお遍路というのができた。しかもそれを支えるものとして、お接待というものが伝統的にあります。つまりお接待こそ、さっき言いました、ホスピタリティということに当たるのではないかと思います。それから善根宿という伝統がございます。お遍路さんを、見も知らない人でも泊めてあげるという。これは英語で言うとホスピスという言葉があたると思いますけれども。そういうお遍路の伝統というのが、愛媛に、そういう温かい心を生んだ。これは愛媛に限らないのですけれども、お遍路の中では、愛媛は菩提の道場というふうに言われていますが、そういうものがあるのだろうと思います。
 それからもう一つ俳句ということで申し上げますと、正岡子規という人が出て、日本の俳句を文学として前進させ、改革をしたわけですけれども。正岡子規以前の俳句というのは、実は今のような形の俳句よりも、むしろ連句。大勢で共同作業として、36句なら36の連句を巻いていくという、そういう形の俳諧が、子規以前には一般的に行われていたわけです。とくに伊予は、それが大変盛んな土地であった。子規記念博物館の和田先生のお話によりますと、愛媛の俳諧のルーツは、大山祇神社に奉納されております「法楽連歌」というものだそうですが、これは15世紀の半ばから17世紀の終わりぐらいまで、延々といろんな階級の人が連句を詠んで奉納しているわけです。連句を奉納して、神に喜んでもらおうというそういう気持ちです。そういうわけで、正岡子規以前には、愛媛の中で、宇和島は宇和島、松山は松山でそれぞれの俳諧の伝統があって、連句を楽しんでいたわけです。
 連句というのは、例えばちょうどこれはぴったり、今から300年前の1692年に、これは実は江戸で生まれた連句なんですけれども、松尾芭蕉が青地彫棠(ちょうとう)という、松山藩の江戸詰めのお医者さんの家に招かれまして、そこで俳句の会がありました。当然先生の芭蕉がお客さまですから、お客様が、その家の主に対するいろんな挨拶の気持ちを込めて、まず発句(ほっく)というものを詠むのです。その時は、芭蕉が「うちよりて 花入さぐれ 梅椿」という発句を詠んでいます。これは要するに、旧暦の12月なのです。この季節はちょうど野や山へ探梅と言いまして、早咲きの梅を探しに行く季節なのですが、「何も野や山へ行かなくても、この家の床の間にある花入れを、よく見てごらん。もうすでにここには梅も椿も咲いているじゃないか」という、非常に温かい、芭蕉の主人に対する挨拶の気持ちです。それを受けて、その家の主であります青木彫棠が詠んだ。これは二つ目で脇句(わきく)と言いますけれども「降り込むままの 初雪の宿」。「せっかく先生をお迎えしましたけれども、こんなあばら家で、雪が隙間から降り込んでくるような所で、何のもてなしもできません」という、芭蕉に対する挨拶。芭蕉の挨拶に対する返礼の気持ちを込めて詠みました。その次に、宝井其角(きかく)という、大変江戸で有名な俳人が、3句目。これは第三(だいさん)と言いますけれども、「目に立たぬ つまり肴をひきかへて」という句を詠んでおります。こういうふうに大勢で、3人、あるいは多い時は5人、6人ですけれども、一巻の連句というものを完成していくわけです。
 この連句の心というものは、まず前に詠んだ人の気持ちになって、一応自分というものをいったん捨てて、前の人の句の心に寄り添って、自分をむなしくして、改めて新しい自分を発見していくという、そういう世界であるわけで、現代のように、俳句というのを独立した、五七五だけを皆それぞれたくさん作って行くという形ではなくて、こういう連句というものが盛んであった。やはりこれは共同作業。さっきも言いましたように、お客様をもてなす意味が、非常に強い文芸です。座の文芸というふうに言われますけれども。そういうものを長年盛んにどの階級も、大名から庶民に至るまでやってきた。これは伊予に限るわけではないんですけれども、伊予の人はことに連句を好んでやっております。そういう中から、こういうホスピタリティというふうな心が培われてきて、現代に至っている。
 例えば、俳句の歴史で言いますと、小林一茶は二度にわたって伊予を訪れて、大変いい思いをしているんです。これは栗田樗堂(ちょうどう)という、経済的にも大変豊かな俳人が松山にいて、その人をスポンサーとして頼って来たということもあるんですが、ひとつは伊予の持つ温かさに引かれて来たんだろうと思います。また、去る11日、日曜日が、種田山頭火という俳人の52回目の命日だったのですけれども。山頭火は山口の人ですが、わざわざ愛媛へ来て、愛媛に終(つい)の住みかを求めて、ここで亡くなったというのも、やはり愛媛の温かさ、ホスピタリティにひかれたのではないかと。そんな気がしております。以上、この2点から、愛媛の良さについて、申し上げました。

讃岐
 ありがとうございました。それでは最後になりますけれども、常磐井先生の方から、実際に生活を見ておられて、伝記や生活をずっと追い掛けて、記録をされているのですが、その目から見ての、愛媛のアイデンティティとか良さみたいなところをお話いただいたらと思うのですが。