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愛媛学のすすめ

伊予八藩の生活文化圏

 2番目に申し上げておきたい事は、これは今日の主題である愛媛学シンポジウムという、まさしく愛媛学についての、私自身の考えでございます。
 以前にも資料をいただきましたし、昨日いろいろ資料をいただきまして、昨晩も今日ここにパネルで、これから後に議論をお続けになる先生方とお話をさせていただいたのでございますが、愛媛学という、これは一種の郷土学でございますが、これは果たして成り立ち得るのだろうかという根源的な疑問を、私は持たないわけにはいきません。
 愛媛県という一つの行政区分がございます。その面積、人口など基本統計なるものは、この封筒の中に入っているようでございます。これを見ていくと、確かに愛媛県というのは実在しています。しかし実在しているのは、行政上実在しているのであって、生活上実在しているか。確かに社会福祉事務所とか、保健所とか、いろいろな施設がございますし、学校もありますから、行政区の中で、我々は生きておりますけれども、もしもごくごく素直な生活者の立場から見ますと、愛媛というのは、必ずしも文化的単位ではないのかもしれません。
 昨日から八藩のお話を伺っておりますけれども、現在愛媛県という、明治維新以後にできあがった行政区の中では、ついこの間まで八つの藩が存在していた。愛媛だけではございません。旧藩領時代というものを振り返ってみますと、徳川時代には、全国大体260から280の藩がございました。その藩の中でも、250年間、同じ殿様が代々その領地を治めていたわけではないので、転封もございましたし、また分家などもございます。長野県を見ましても、これは小藩連立の県でございます。お隣の高知県などは、これは土佐日記のころからの土佐の国と高知県というのが、ほぼ一体でございますから、1藩1県という、これはかなり珍しい県でございます。
 さて、この愛媛県、その中で行政区分を見てまいりますと、いくつもの市町村がございます。見事に出来上がっているわけですが、どうも我々の気持ちとしましては、愛媛の方の前で大変申し訳ないのですけれども、旧藩領といったようなところが、かなり私たちの心の中で、ある文化的な境目を作っているのではないかという気がいたします。
 これは明治の廃藩置県というのが良かったか悪かったかというバカげた話にも、展開していき得る性質のものでございますけれども、愛媛学というものは、恐らくないのではないか。そんなことをシンポジウムの前で言ってしまったら申し訳ないのですけれども、ないという考え方もあり得るのです。
 しかし同時に、先程の、もしも八藩という、あるいは八つの文化圏というものを愛媛県の中に想定することができるとするならば、八つの文化圏それぞれについての学はあり得るだろう。
 今日は米地先生がお見えでございますが、かつて私は遠野の村にも入ったことがございますし、北上山地は随分歩きました。青森県の八戸という所に参りまして、友人に近所を見物させてもらいました。「よし、見せてやるよ。」ということで、車で案内してくれましたが、どこへ行くのかと思ったら三陸沿岸を、どんどん南下していくわけです。八戸というのは御存知のように青森県でございます。途中でちょっと標識を見たら、岩手県と書いてあるんです。私は青森を案内してもらうつもりでいたら、とんでもない話でございまして、どんどん岩手県の中に入って行くのです。青森じゃないだろうと言ったら、「青森じゃない。しかし南部だ。」という答えが返ってきたんです。旧南部藩領というのは、それなりに南部諸藩の間であつれきがございましたけれども、連帯感を持っているのです。青森県というのは、旧南部領と、旧津軽領とを統合した部分がございますので、どうもその太平洋側と日本海側と、これは様子が違う。そんなことは、日本国中を歩いておりますと、どこの県に行っても、必ずぶつかる問題です。
 こういうことを申し上げておりますと、この愛媛学についても、ぶち壊し的なことになるかもしれませんけれども、私はこの八つの藩、旧藩領、この愛媛の各地域の特色というのは、お手元の資料に恐らくあると思います。私もいただきまして、改めて勉強させていただいたのですけれども、天領もございますし、今治・松山・大洲・宇和島うんぬんと、伊予八藩というのが書いてあります。今どき藩領でもあるまいという考え方もございますが、やはり歴史の力というものは恐ろしいもので、この8地域についての地域学というのは、恐らく成立し得るであろう。  
 これは現在の行政区とは違います。むしろこれは歴史的に形成されて来た地域文化の単位と言いますか、地域文化圏でありましょう。この地域文化圏それぞれについての学は、恐らく成り立ち得るだろう。大洲学というのも成り立ち得るだろうし、松山学というのも成り立ち得るだろう。
 私が申し上げたいのは、決して旧藩領に固執するわけではございませんが、我々の生活文化のあり方というのは、行政の線引きとは違うということを申し上げたいために、今のような、多少極端なことを申し上げたのです。我々が持っている生活の空間感覚というのは、しばしば旧藩領を境目にしております。ときには、旧藩領という以前の、昔の大字のあたりで、生活圏というのは決まっているかもしれません。
 近代国家の行政というのは、昔からあった生活圏というようなものを前提にして、それをあまり大事にし過ぎていたら行政はできませんから、こうして行政区ができあがったことは、否定もいたしませんし、それについて善悪の判断もできません。この行政区画で、ちゃんとこの100年やってきたのですから、行政的にはこれでよろしいんですけれども、生活文化という視点から見ますと、現在あります行政区と、それから歴史的に形成されて来た地域文化とは、だいぶ違うようです。
 さあそこで、それでは愛媛学は可能かということなのでございますけれども、これは後からの先生方のディスカッションの中で恐らく出てくるかと思いますし、無意味だと思ったら、無視していただいたらよろしいのでございますが、私は愛媛学というのが、成立するとするならば、それは調整の学だというように考えます。
 これは八つなのか、それとも十二なのか、あるいは六つなのか、それは私は存じません。これは地域の方々が、それぞれにお考えになることでございますから。もしもこの伊予八藩というのが、現在も意識の中で生き残っていて、それが生活文化圏を形成しているとするならば、その異なった八つの地域文化をどう調整していくかという、調整の学が愛媛学というものだろうと思います。
 長野も真田幸村などで御存知のように、上田にもお城がございましたし、松代にもありました。諏訪にも高遠藩がありました。あれほど小藩が連立していたところはないわけでありますが、こうした所でも、やはり長野県、長野学というのは、恐らくあり得ない。しかし北信、南信、あるいは松本・長野・飯田・諏訪といったような、各地域、あるいは生活地域の連携の学、あるいは連携調整の学としての長野学というのは、恐らくあり得るだろう。そんな風に考えるわけです。
 なぜ水をさすようなことを申し上げるかと申しますと、最前から繰り返しておりますように、我々の生活文化圏というものは、我々の意識の中には定着しておりまして、これは行政とはちょっと関係がないのです。関係はあるかもしれませんけれども、少なくとも愛媛学といったような学問は、行政の学ではない。生活者の側から見た学として、あるいは学というのは、研究対象ということですが、研究対象として見ますならば、この八つの異なった生活文化圏が、その違いをお互いに認め合った上で、あるいは尊重し合った上で、どのようにこの八つの生活文化圏が共生していけるか。共生していかなければいけないのですけれども、どのようにして、皆がこれを楽しくしていくことができるかというのが、その根本になければいけないと思っているわけです。