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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(4)郷里の小学校にて退職

 「次に昭和40年(1965年)から、北宇和郡日吉(ひよし)村(現鬼北町)の富母里(とんもり)小学校に4年勤めました。ここは小中一貫の学校で、中学校の授業も担当しました。人手が足りないため、事務の仕事もやり、給食献立や旅費の請求などを受け持ちました。担任は1年生か2年生で、低学年専門でした。ここでも、しつけから入りました。低学年の指導は難しいですが、かわいいです。何もかも、思っていることを全部出してくれるのです。腹の底から気持ちを言ってくれるので、よく分かるのです。結局、子どもと仲良くなることですね。仲良くなって、信頼関係ができると楽ですね、授業も楽しくなります。
 最後は郷里に帰ってきまして、昭和44年(1969年)から松野西小学校に8年勤めました。松野では3年生を担任したり、養護学級を受け持ったりしました。
 昭和52年(1977年)3月に退職しました。教員になるのも遅かったのですが、やめる時も退職勧奨があったので、少し早くやめました。ですから教職経験は30年に少し足りません。
 昔の子どもは、学校から帰る時、よく道草をしました。先生は『道草しないで帰りなさい。』と言うのですが、1時間ぐらい、あっちで花を摘んだり、虫をとったり、川に入ったり、友達と楽しいことがいっぱいありました。みんな貧乏暮らしで、物はなかったのですが、伸び伸び育っていたと思います。
 私は社会のことはあまり分からずに、学校の中だけで子どもたちと生活してきたように思います(図表3-2-2参照)。子どもに、あれをしたらよかった、これもしたらよかったとか、後から申し訳ない気持ちでいっぱいです。しかし、教師をしてきて本当によかったです。」


図表3-2-2 勤務した学校の変遷

図表3-2-2 勤務した学校の変遷

聞き取り調査により作成。○数字は勤務順を示す。