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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(3)山奥の分校勤め

 「告森分校に続いて、昭和35年(1960年)から北宇和郡広見町(現鬼北町)の愛治(あいじ)小学校大宿(おおじゅく)分校に5年勤めました。そこでも教員宿舎に住みました。この学校も分校ですので、1年生と2年生だけで、3年生になると本校へ通います。学級は20人を超えていたと思います。だんだん子どもが増える時期でした。本校とはかなり離れていました。ここもバス便がないので、児童も先生も歩いて本校へ通っていました。
 親は、田がほとんどないので、シイタケやユズの栽培など、畑仕事や山仕事をしていました。幼稚園や保育園はありませんでしたから、幼稚園の課程から指導しなければなりません。あいさつとかしつけ、生活指導です。生活習慣が身についていないのです。親が山仕事ばかりで、子どものしつけに手がまわらないのでしょう。しつけを学校の先生が全部受け持たないといけなかったのです。食事の指導もずいぶんしました。1年生の1学期は生活指導で、勉強は2学期からでした。勉強をするまでの準備をしつけるのです。よそ見はするし、先生の話を聞いていないのです。授業中に立って歩いたり、出て行ったりする子どももいました。告森分校よりもっと素朴、粗野でした。先生に言わないで勝手に家に帰ることもありました。心配しましてね。今のように電話はありませんし、授業はしないといけないので、本当に困りました。
 大宿は広いです。野村(のむら)に越える峠の麓(ふもと)あたりからも通学していました。家庭訪問に行って、遠くて大変だなあと思いました。
 テレビはまだ少ない時代で、村に3台か4台でした。テレビがある家には子どもたちが押し寄せて見ていました。子ども向けの番組があって、『三匹のこぶた』(NHK「ブーフーウー」昭和35年~42年放送)とか黒柳徹子さんが出ていました。他に娯楽がありませんから、みんな楽しみにしていました。家の方はご迷惑でしたでしょうが、その時間には見せていただいていました。」