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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)教職の道へ

 「私は大陸からの引揚げ者です。中国の東北部に行っておりました。終戦のころ、夫が30歳で戦死した時、私は24歳でした。その時、炭鉱町の撫順(フーシュン)に居ましたが、1歳と5歳の2人の息子を連れて、着の身着のままで帰還しました。お金は3,000円までということで、財産を持って帰ることはできませんでした。北の方にいた方はひどい目にあったといいます。本当にあの時は苦労しました。でも、戦争が終わったということでみんな明るかったです。希望がありました。
 教師になった最初は代用教員でした。人手不足の時代で、先生の仕事がいくらでもあり、中等教育を受けていた人は先生をされた方が多かったように思います。おかげでこのように教員として生きてこられました。
 昭和22年(1947年)、吉野生(よしのぶ)小学校(現在の松野東小)の代用教員になりました。学校は今と同じ鳥居駄場(とりいだば)にありました。ある先生が組合専従で出るので、その間の代教として採用されました。勤務は3か月でした。その後は二名(ふたな)中学校(当時北宇和郡二名村、現宇和島市三間町)に変わりました。
 二名中学校での勤務は2年です。私は宇和島高等家政女学校(現在の宇和島南中等教育学校)の卒業でしたので、家庭科を担当しました。2年間、松丸(まつまる)から汽車で通勤しました。バス便はありませんでした。」