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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)県境での医療

 「その時、久主(くず)(旧柳谷(やなだに)村中津(なかつ)、現久万高原町)の人から『診療所の建物はあるんだけど、来てくれまいか。』という誘いがありました。久主地区が日々の飯米と開業資金2万円を出してやろうというのです。それも一つの方法かな、と思って赴任しました。その2万円は開業の準備ですぐなくなりました。当時の患者さんの中には、馬や牛の背に乗せられてくる人がおりましたし、私自身も馬にも牛にも乗り往診しました。牛は背が広いので安定せず、背から落ちたこともありました。高知県の都(みやこ)(現高知県吾川(あがわ)郡仁淀川(によどがわ)町別枝(べっし)都)という所へ、馬に乗って診察に行き、一晩泊まって帰ったこともありました。その時の朝食は、豆腐の梅漬け、白菜に黄な粉でした。
 久主では、お産によく呼ばれました。県境なので高知県にも行きました。家に行くと、畳(たたみ)をあげてしまっていて、板間でずっと座って世話することになりました。板が薄くて寒いし、もう少しちゃんとした所で出産させてあげたかったです。妊婦を診ていたら、生まれてくる子どもが大きすぎて、これではお産にならないなといろいろ考えてみましたが、結局駄目で子どもは亡くなりました。
 他にも、診察した妊婦を郵便車で運んだり、大八車に乗せ看護婦をつけて病院まで運んだりしたことがありました。この方たちは無事出産することができました。
 普通は産婆さんが出産を診て、医者は診ないのですが、時には産婆さんの仕事もしました。ある時、出産後の赤ちゃんの世話をしていたら、お母さんの色がない。どうしたものかと思っていたその時、手が伸びて後産を出しました。それで出血が止まって生き返りました。『お産というのはこわいものじゃなあ。』と思いました。
 お産以外では、谷に落ちて大ケガした女性を処置して助けたこともありました。学生時代から医者の家にいて修行したおかげで、難しい縫合ができました。
 久主地区では地区の人に大事にしてもらい、自分の勉強もできました。」