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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)あこがれの職場に入社して

 ア デパートはあこがれの職場

 「実家は、現在の大街道(おおかいどう)三丁目でロープウェイ乗り場のすぐ近くにあります。三越まで歩いて5分もかからない距離です。実家は、酒屋をやっていました。小学生の時に戦争になり、父が徴兵されて戦争へ行き、ビルマ(ミャンマー)のアキャブで戦死しました。それからは、母子家庭になったのです。戦争中は、母親の実家の上浮穴(かみうけな)へ疎開をしていました。空襲で実家は全て焼けてしまったので、終戦になって松山へ戻ってから、実家の近くにバラックの家を建てました。当時お酒が配給制で、ほとんど品物がない状態であったため、酒屋の商売はできませんでした。母は、内職の収入で私たちを育ててくれました。中学校を卒業して、高校へ進学したい希望はあったのですが、母を助けるために縫製関係の職場へ就職しました。就職して1年も経っていない昭和25年(1950年)に、母の友人で三越に勤務している人から、三越の食堂(昔はレストランとは言いませんでした。)で人がいるからと私に声がかかり、三越に勤めることになりました。中途採用で、最初は見習いのようなかたちで勤め、昭和26年(1951年)に正社員になりました。松山三越は、昭和21年(1946年)10月に開店しましたが、私が三越に入った時は、開店当時のままの木造平屋一部2階建ての、今と比べると粗末な建物でした。食堂もまだ小さなもので、従業員は母の友人であった責任者が1人、私と同級生の女性が1人の合計3人で、ウェイトレスは私と同級生の2人でした。しかし、デパートといえば当時の女性にとってあこがれの職場です。『頑張って働こう。』と胸に誓って、それ以来がむしゃらに働きました。
 正社員になった昭和26年(1951年)ころの初任給は、5,660円で、これに賞与がありました。最初のころは、賞与が年間4回あったのです。
 食堂のウェイトレスを2年間やり、昭和28年(1953年)に食料品売場(お菓子売場)へ転属になりました。売場へは、すごく行きたかったのでうれしかったです。その当時は、売場と食堂のウェイトレスでは何かランクが違うようで気になっていました。お菓子売場では、当時としては珍しかった外国から輸入したチョコレート、チューインガムやビスケットなど、デパートでしか売っていなかった高級菓子の売場にもいました。それから、ビンのケースに入ったお菓子をスコップですくって秤(はかり)売りする秤菓子の売場やパン売場にもいました。幼稚園の子どもが、お腹が空いたらお母さんからお金をもらって三越のパン売場でパンを買いにも来ていました。カレーパンなどは、手が汚れないように油紙に包んで渡していました。そのころのお菓子売場には、幼稚園の子どもや小学生が1人でお菓子やパンを買いに来るような雰囲気がありました。」

 イ 働きながら学ぶ

 「私はどうしても高校へ行きたかったので、昭和27年に総務課にお願いして、会社の許可をもらい、定時制高校へ進学しました。松山商業高等学校定時制で4年間、働きながら学んだのです。
 朝は普通通り出勤するのですが、夜は閉店が6時でしたので、学校に間に合うように30分早く退社させてもらうようにしました。5時半になると、カバンを持って学校へ走っていくのです。帰りは、9時ころになるのですが、松商から実家のある大街道三丁目までなので、何人かの友達と話しながら歩いて帰っていました。当時は定時制の生徒もたくさんいました。1学年に2クラスあって、4年生まで合わせると300人は超えていたと思います。三越で私と同じように中学校を卒業して入社した人もいましたが定時制高校へ通っていたのは、結局、後にも先にも私1人だけでした。勉強がしたくて定時制高校へ進学したので一生懸命に勉強しました。卒業の時には、商工会議所会頭賞も頂きました。その賞状を持って、三越の総務課へ卒業の報告に行った時には、みんなからほめていただきました。定時制を卒業する時、もっと勉強がしたくて夜間の大学へ進学することも考えたのですが、洋裁も習いたかったので松山ドレスメーカー女学院に通いました。ドレメへ行っているときは、仕事が完全に終わってからでしたので、会社には迷惑をかけませんでした。ドレメでは師範科を卒業しました。」