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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)伝統工芸を支えた女性-大洲和紙-

 大洲和紙の製造は、内子町(うちこちょう)内子(うちこ)・五十崎(いかざき)地区で盛んで、昭和52年(1977年)に通産大臣指定の伝統工芸品に指定されている。その歴史は古く、千年以上前から漉(す)かれていたといわれるが、本格的に栄えたのは江戸時代の宝暦年間(1751~1764年)に大洲(おおず)藩が専売制に着手したことによる。以来、藩の保護奨励を受け発展した。佐藤信淵(1769~1850年)の『経済要録』(1827年)にも「今の世に当て、伊予の大州半紙は厚く且つ其幅も優也。故に大州半紙の勢ひ天下に独歩せり」と記されている(③)。明治時代になり、いったん名声を失うが、明治時代中期よりミツマタを原料とした改良半紙で勢いを盛り返した。紙漉(す)きに必要な良質で豊富な水に恵まれたこともあり、明治時代末期には1,432軒の製紙戸数があったが、その後、経営規模の拡大・工場化により昭和初期には264軒になる(④)。さらに洋紙の普及により減産の道をたどり、現在、内子町五十崎地区ではわずか2軒だけとなっている。そのうちの1軒である天神産紙工場(写真2-2-4参照)は大正初期に創業され、手漉和紙工場としては現在日本一の規模である。
 大洲和紙の現況について、天神産紙工場社長の**さんは次のように話す。
 「明治時代末期に1,432軒あった工場も、現在は3軒になりました。内子町に2軒、西予市(せいよし)野村(のむら)に1軒です。戦時中は軍の命令により風船爆弾紙を漉いていました。昭和10年代から40年代にかけての主要製品は複写用紙でしたが、複写機の登場と普及により売れなくなりました。役所で戸籍など永年保存文書の記録用紙としても使われていたのですが、パソコンの普及により必要がなくなったのです。今は、ミツマタやコウゾを原料とした障子紙や書道半紙を主に漉いています。原料となるコウゾ・ミツマタは国内産のものもあるのですが、7割から8割がタイや中国からの輸入物です。国内産は、昔はこの地域で作っていましたが、今は県内ではほとんど作っていないので高知県の業者から買っています。昭和40年ころまでは、県内の業者から買っていました。この地域では、コウゾやミツマタの栽培を本業としている人は少なかったと思います。副業で田んぼの畦(あぜ)にコウゾやミツマタを植えていたのです。五十崎の凧(たこ)合戦用の和紙も漉いています。凧合戦用の和紙は、うちと西岡さんところ(和紙工房ニシオカ)が交代で漉いています。五十崎の凧合戦は小田川(おだがわ)河川敷で行うので、凧合戦用の和紙は、紙が水にぬれても溶けないように松脂(やに)を入れています。縦が約66cm、横が約99cmの大きさの紙を約2,500枚納めます。
 現在の従業員数は12名で男性が2名、女性が10名です。特に理由はないのですが、昔から女性が多い職場です。女性は、紙漉き3名、乾燥2名で残りの人は原料の準備、仕上げなどの工程や事務仕事をしています。そのうち、国の伝統工芸士に紙漉きで2名、乾燥で1名が認定されています。
 大洲和紙を作ってきたのは、勉強なんかする時間がない、家に帰ると子守をしなければならない、田んぼや畑仕事をしなければならない、夕食の仕度をしなければならない、そういう女の人たちです。その人たちが一生懸命に仕事をしてきたのです。それがたまたま紙漉きであったのです。」
 大洲和紙の生産を支えてきた女性の労働と生活の変遷について、天神産紙工場の**さん(昭和14年生まれ)、**さん(昭和11年生まれ)に話を聞いた。**さん、**さんは2人とも国の伝統工芸士(紙漉き)に認定されている。

 ア 手伝いはミツマタの皮はぎ

 子どものころ、手伝いでミツマタの皮はぎをしていた思い出について、**さんは次のように話す。   
 「私は生まれも育ちも五十崎です。昔は天神村(てんじんむら)と言っていました。地元の中学校を卒業して昭和29年(1954年)に天神産紙に入りました。それ以来、ずっとここで紙漉きの仕事をしており、今年で55年目になります。実家は農業をしていました。紙の原料になるコウゾやミツマタは作っていなかったのですが、母親がミツマタの皮はぎをよくしており、休みの日にはそれをよく手伝っていました。ミツマタは河辺村(かわべむら)(現大洲市河辺町)でたくさん作っていたと思います。それをこの会社や五十崎の製紙会社が仕入れてきて、内職のような形で近所の人たちがミツマタの皮はぎをしていたのだと思います。今のようにきれいに皮をはいだものが来ているのではなく、皮がついているものが来ていたのではないかと思います。」
 また、**さんは次のように話す。
 「私は、河辺村出身で昭和33年(1958年)にお見合い結婚してこっちへ来ました。昭和38年(1963年)に見習いで紙漉きの仕事を始め、翌年に正式に社員になりました。今年で46年目になります。子どものころは、山のスギ苗を植えてあるところの草引き、ミツマタ畑の草刈りをしました。河辺では紙の原料になるコウゾやミツマタもたくさん作っていました。中学校を卒業してから結婚するまでは、家の手伝いをしていました。当時、河辺では上の学校へ行く人はほとんどおらず、みんな家の手伝いでスギ苗の草を刈ったり、田んぼや畑仕事、ミツマタの仕事をしていました。冬になると、ミツマタを刈り、こが(こしき)で蒸し、皮をはぎ、乾燥させて出していました。ここへ入ってわかったことですが、実家で作ったミツマタが仲買を通し、この工場に卸されていました。」

 イ 最初は「ちり紙」を漉いて練習

 紙漉きを始めた当時について、**さんは次のように話す。
 「紙漉きを始めたのは、当時兄がこの会社で働いており、中学校を卒業した時、『紙漉きをやってみないか。』と誘われたことがきっかけです。中学校の同級生でここに乾燥の仕事で入った人はいましたが、紙漉きの仕事をするのは私だけで、他の同級生は進学したり他の会社へ就職しました。私が入った昭和29年(1954年)ころは、紙漉きの人や乾燥の人はたくさんいました。合わせて30人以上はいたと思います。紙漉きの中には、男の人もいました。この地域では、ここのような会社だけでなく、各家庭や個人で漉いている人もたくさんいました。
 入った時は、それまで紙漉きの経験もないので全てが初めてのことでしたが、私の兄嫁がこの会社で紙漉きをしていたので、いろいろと教えてもらい、それほど苦労をすることはありませでした。最初の1か月ぐらいは、教えてもらいながら原料のあまり良いものでない『ちり紙』(本来は、コウゾの外皮の屑(くず)を原料に作られた物で、一般の和紙を包装する際、その上下に中の和紙を保護する目的として作られた物である。)を漉いて練習をしました。できるようになってから良いものを漉くようになりました。1日に漉く枚数は、障子紙や改良紙など紙の種類によっても違いますが、今は障子紙で200枚ぐらいです。若いころはもう少し多く、250枚から300枚ぐらいは漉いていました。昭和30年代から40年代は、まだ紙がよく売れていたので前社長から『1枚でも多く漉くように。』と言われたこともありました。1枚漉くといくらという出来高制なので、昔は休みをとるのも惜しいように頑張って漉いた時もありますが、今は年もとったのでのんきに仕事をさせてもらっています。当時は、早い人は朝5時ころから漉きはじめて、夕方6時ころまで漉いている人もいました。戦前には、朝3時半ころからろうそくのあかりの下で紙を漉いている人もいたと聞いています。」
 また、**さんは次のように話す。
 「結婚してから紙漉きを始めるまでは、家の田んぼ仕事や家事、子育てに追われていました。ここへ入ったきっかけは、主人の姉がここで紙張り(乾燥)の仕事をしていたのです。姉から『子どももだいぶ手がかからなくなったので紙漉きの仕事でもしたらどうか。』と言われました。それまでに紙漉きの経験がなく、紙を漉いているのも見たことがなかったので、最初は『ようせん。』と断っていたのですが、姉に『どうせ子どもが大きくなったら働くようになるのだから。今、紙漉きの人が足りないのでやってみないか。』と言われ始めることにしました。最初は見習いでした。見習い期間は日役で1日に300円でした。たくさん漉くと上乗せがありましたが、枚数が少ないときは300円でした。私が入った昭和38年(1963年)ころは、24、25人紙漉きの人がいたと思います。常時、20人ぐらいの人は紙を漉いていました。出来高制なので時間は割と自由になっていました。今と同じように障子紙や改良紙を漉いていましたが、今と比べるとたくさん売れていて忙しかったのです。1日に漉く枚数は、今は薄い改良紙を漉いているので250枚ぐらい漉いています。」

 ウ 仕事場でお乳を飲ませる

 仕事をしながらの子育てについて、**さんは次のように話す。
 「昭和34年(1959年)に親に言われるままに結婚しました。主人には養子として来てもらいました。当時は、主人も別な製紙会社で働いていました。ここで一緒に働いたこともあります。昭和36年(1961年)に長男ができ、38年に長女ができたのですが、母が子どもの世話をしてくれたので仕事を辞めないで続けることができました。家は会社から歩いて10分ぐらいの距離なので、子どもが赤ちゃんの時には、母がおんぶしてここまで連れてきて仕事場でお乳を飲ませていました。朝、出勤前にお乳を飲ませ、お昼には家に帰って飲ませるのですが、さらに午前に1回、午後に1回飲むので、その都度、母がここまで連れてきました。昭和30年代から40年代には、ここで働いている人の子どもが工場の周りでよく遊んでいました。紙漉きの人もたくさんいて、漉き場に子どもが出入りしてにぎやかでした。小さい子どもが泣きながら漉き場に入って来ることもたびたびありました。当時は、小さな子どものいる人は、みんな子どもを連れて工場に来て、工場のまわりで子どもを遊ばせながら仕事をしていました。日曜日は仕事が休みですが、お米を作っていたので田んぼ仕事があり、ゆっくり休む時間はあまりありませんでした。家事は母がやってくれたので、私は仕事に専念することができました。子どもが学校へ行くようになってからも、参観日などはその時間だけ抜けていくことができました。出来高制であったので、そういう面では割と自由が利く仕事です。職場の同僚とは、30年から40年間の長いつきあいで、和気あいあいとした雰囲気で仕事をしています。主人のことや子どものこと、家のこと、お互いに知らないことはない間柄なので、和紙作りの連携作業もうまくいきます。家にいる時間よりもここにいる時間のほうが長いですから。」
 また、**さんは次のように話す。
 「昭和33年(1958年)に結婚し、翌年に長男、36年に長女、39年に次男が生まれました。次男はこの会社へ入ってからできたのです。上の子どもたちもまだ小学校へ上がる前でした。子どもの面倒は母(姑(しゅうとめ))が見てくれました。一番下の子どもは、母に工場まで連れてきてもらい、ここでお乳を飲ませていました。当時は従業員の社宅もあり、社宅にいる人は子どもを連れて仕事をしていました。従業員に女性が多い職場なのでそういう面ではおおらかで、理解があったと思います。私らの時代は、炊事、洗濯、掃除と何でも嫁がしなければならない時代だったので苦労はしました。仕事から帰ると夕食の準備をし、食事が終わると片付けや家のことをしていました。洗濯は、いつも夜にしていました。私は嫁入り道具に親が洗濯機を買って持たせてくれたので本当に助かりました。今のように全自動のものではなかったのですが、それがあったので夜、洗濯することができたのです。」

 エ ひたむきに紙を漉いて

 紙漉きの仕事について、**さんは次のように話す。
 「紙漉きのやり方は、昔も今も変わりません。紙漉きは、水の入った漉き舟に紙料(原料のコウゾやミツマタ)とトロロアオイ(紙漉きに使う天然のノリ)を入れてよく混ぜ合わせます。
 紙料とノリの割合は特に決まっていないので経験と勘で行っています。桁(けた)をはめ込んだスダレ(細いヒゴを糸で結んで編んだもの)を漉き船に入れて紙漉きを行い、前後にゆすって紙の厚さが均一になるようにします。そして、漉き上げた和紙をスダレから外して、後ろに置いた台に重ねていくのです。紙漉きの工程で一番難しく、苦労するのは紙1枚1枚の厚さを同じにすることです。50年以上やっていますが、厚さをそろえることが一番難しいことです。全て経験と勘で行っているので、なかなか思うようにいかないのです。その日の体調にもよります。『今日は、しんどいな。』と思ってやっている日は特にうまくいきません。1日に200枚作るなら全て同じ厚さにしなければならないと思うのですが、うまくいかずに苦労しています。紙を漉いてから3日後ぐらいに乾燥が終わった紙の目方を20枚ずつ計られます。目方がそろったときは良いのですが、重いものと軽いものの誤差がたくさん出たときは『今日は、厚すぎたかな。』と反省しています。どのくらいの誤差があったかは、必ず言ってもらうようにしています。
 和紙は寒に良いものが出来るというのは、ノリのトロロアオイに粘りがでるからです。冬のすき舟の水は冷たいです。入った当時は、あかぎれや薬品にまけて手が痛くなってひび割れていました。結婚して子どもの世話をするころにも、手が乾くとひび割れて難儀しました。冬場は寒いことは寒いのですが、50年以上やっているので体が寒さに慣れているのです。
 紙漉きで使うスダレの糸は、使っているうちに切れます。糸が切れるとスダレを家に持ち帰って繕うことも職人の仕事です。1年も使わないうちに糸が切れはじめるのですが、切れだすと毎晩それをやらなければならないのです。仕事が終わってスダレを持ち帰り、夜に糸をかけて直して、次の日に持って来て使うのです。細かい仕事なので、目は疲れるし肩もこる大変な仕事です。たくさん糸が切れたときは2時間以上かかることもあります。うまく直さないと紙を漉いたときに紙に傷がつくのです。どうしてもうまく直せなくなると新しいものに換えてもらいます。
 今は、障子紙や改良紙を漉いています。紙にも漉く人の個性がでるようです。社長のようにいつも紙を見ている人は、『これは誰が漉いた紙か。』がわかるようです。」
 また、**さんは次のように話す。
 「紙漉きの仕事で一番難しいのは、紙の厚さ1枚1枚をそろえることです。それが昔からの悩みです。いつも同じ紙を漉いているわけではなく、紙が変わると目方が変わってくるのでその厚さをそろえることが難しいのです。紙漉きの人は、みんなそこが一番苦労するところだと思います。
 紙漉きのスダレの糸が切れたときは、直さなければならないのでそれも苦労しました。今は、年をとって目が悪くなっているので老眼鏡をかけてしているのですが、細かい作業なのでなかなかうまくできずに難儀しています。昔は田んぼ仕事もしなければならなかったのですから、本当によく辛抱して仕事をしていたと思います。今の人たちを見ていると『時代は変わったな。』とつくづく思います。」

写真2-2-4 天神産紙工場

写真2-2-4 天神産紙工場

内子町平岡。平成20年8月撮影