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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(3)農家の嫁として

 ア 嫁は大事な労働力

 「昭和22年(1947年)に丹原町久妙寺の農家へ嫁ぎました。新婚旅行などはなく農家の嫁として結婚式の翌日から働かなければならなかったのです。姑(しゅうとめ)さんが、農家仕事の好きな人で、台所仕事や家事は全て私の仕事でした。財布は一つで、家計は一緒でした。朝、5時に起きて、ご飯を作ります。義弟や妹が学校へ行くので、6時までには朝食を作らなければならないのです。お弁当も作ります。炊飯器などないので、前の日にお米を洗っておいて、起きるとすぐにおくどさん(かまど)に火を付け、ご飯を炊きます。その間におかずを作るのです。朝食を済ませ、その後、後片付け、掃除、洗濯を済ませます。洗濯機などはなく、たらいで洗濯をしていました。家事を済ませたら、すでに主人や舅(しゅうと)さんや姑さんは田んぼや畑へ出ているので、後を追って田んぼや畑へ行きます。
 昭和24年に長男が生まれました。当時の農家では、子どもが出来ると姑さんが子守をして、嫁さんが田んぼや畑仕事に出ていましたが、うちの姑さんはそうではなく、ずっと田んぼや畑仕事に出ていました。子育てをしながら農作業をして、田んぼや畑仕事から帰ると夕食の支度や風呂沸かしなどてんてこ舞いしていました。当時、農家の嫁はどこの家でも大事な労働力でした。嫁をもらうと『手間が増えた。』と言われ、文句を言わないで黙って一生懸命働くことが良い農家の嫁とされていました。私もそうしてきました。」

 イ 早乙女は苦行
 
 「昔は田植えといえば女の仕事とされていました。植え手のことを早乙女(さおとめ)と呼びます。農家の女性がかすりの着物に赤いたすきをかけ、手甲(てっこう)、きゃはんに白い手ぬぐいを身に付けて、1年で一番輝く時でした。その華やいだ雰囲気とは裏腹に、田植え作業は重労働です。1日中、腰を曲げて体を2つに折っての作業は苦行そのものでした。朝から田植えを始めると夕方には手足がむくんできます。朝早くから働けば1日で約16時間は水の中にいるのです。雨が降れば、ミノカサを着なければなりません。連日腰を曲げた作業が10日から15日ぐらい続くのですから、腰の痛みはたまりません。当時の田植えは、人がたくさんいるので親戚(しんせき)同士で助け合い、5人から8人ぐらい手間をそろえて共同でする手間替えを行っていました。自分の家の田植えが終わると、次は親戚の家を手伝うというやり方です。」

 ウ 草とのたたかい

 「田植えをして、1週間ぐらいすれば、『もとかき』といって稲の株元の分(ぶん)けつをよくするために、株元の泥をのけていきます。手作業でするので手のつめが磨(す)り減ってくるのです。やらなくても分けつしたと思いますが、いらないしんどいことをしていました。田植えの後から夏にかけての草とりは、コロガシ(中耕除草機(ちゅうこうじょそうき))を使っていました。田んぼの中の土を反転させて草をとる機械です。1日中裸足で田んぼの中を歩くので、足の裏の皮がはげてきて、痛くて歩けなくなっていました。草とりの中でも、一番しんどかった仕事は、『しまい草』です。草とりで残った草を田んぼの中をはいながら、手で草をとる作業です。田んぼが1町(約1ha)あろうが、全て手で行います。はって行うので腰や胴が焼けるように痛くなるのです。夏場で稲の丈も伸びてきています。暑いうえに稲の葉が茅のようになっているので、頬(ほお)かむりをしていても擦れて痛いのです。ときには稲の葉先で目を突いたりすることもありました。田植えもきつい作業でしたが、それ以上にしんどい仕事でした。」

 エ 収穫

 「秋祭りが終わると稲刈りが始まります。10月下旬からです。家族みんなが鎌で稲を刈ります。1枚の田んぼを刈り終えると女の人は、腰にくくりつけたわらで刈りとった稲を束ねていきます。その間に男の人が稲木(いなき)を立てていきます。それが終わると稲束を稲木に掛けていくのです。稲刈りは10日間ぐらい続きました。稲刈りも肩や腰が痛くなり大変な作業でしたが、田んぼで食べるお弁当は格別においしいものでした。稲刈りが終わると11月3日ころから稲扱(こ)ぎをします。実家では、足踏み脱穀機を使っていましたが、嫁ぎ先では、すでに動力脱穀機を使っていました。
 昔は籾摺りといえば籾摺り屋さんがいて、機械を持って村の家々を回り、賃摺りをしていました。嫁ぎ先の舅が籾摺り屋さんでした。籾摺りの日には、家族総出で親戚や近所の人にも手間替えで手伝ってもらっていました。女の人は、スクモ(籾がら)の始末をします。スクモの始末をしていると体中がはしかく(チクチクと痛がゆく)なってたまりませんでした。昼食は、その家の主婦が準備をします。籾摺りが終わると、体中についたスクモやほこりを落とし、みんなで夕食を食べます。夕食にはお酒も振る舞われ、ご馳走(ちそう)を食べ、酒を飲みながら四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせていました。」

 オ 農業の機械化

 「1960年代以降、農業機械が急速に普及しました。田起こしは耕耘(こううん)機やトラクター、田植えは田植え機により、稲刈りはバインダーさらに稲刈りと脱穀ができるコンバインの出現によって、労力は大幅に軽減されました。また、草とりは除草剤の開発、病害虫の駆除は農薬によって米作は画期的に進歩しました。こういったものにより、田植えの腰の痛み、除草機を押して足や胴が痛いなどの苦労はなくなりました。今まで夢のように思っていたことが現実になったのです。しかし、農業が機械化されたため、機械代が必要になりました。除草剤代や農薬代も必要です。お米の収入だけでは、とても支払うことはできず、わが家はキュウリや電照菊など施設園芸で得た収入で支払っていました。施設園芸をしていない農家は、日雇い仕事や出稼ぎをして得た収入で支払っていました。施設園芸で収入を得なければならないので、機械化されたからといって時間的な余裕ができたわけでもないのです。」

 カ 世渡りをまかされて

 「結婚して17年目(昭和38年〔1963年〕)の正月に、舅から『今日からお前らが世渡りをせよ。』と言われ、世渡り(家計と経営)をもらいました。私はその日からお金の出入りをきっちりしようと思い、家計簿と農業日誌をつけるようにしました。以来、今日まで1日も休まずに続けています。よく続いたなと思います。書くのは1日5分もかかりません。昭和38年に世渡りをもらった時、わが家には借金もなければ貯金もありませんでした。私たちは、こんなに一生懸命に働いて頑張ったのにどうしてだろうと思いました。今思うと、舅は人が良かったので、貸し倒れなどがあったのかもしれません。そこで私は、収入はこれだけ、支出はこれだけと親に説明ができるように家計簿をつけ始めました。よく農家の人は、『今年は不作で、生活できない。』と言いますがそうではないと思います。私は、豊作で収入が多いときにしっかりと蓄え、農家は昨年の収入で食べていけばよいという考えで生活をしていました。」