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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)大陸から命がけで引き揚げて

 松山市の**さん(大正7年生まれ)は、終戦後に北朝鮮から家族とともに命からがら引き揚げた体験をしている。当時のことについて聞いた。

 ア 大陸からの帰還

 「私は結婚したのは23歳のとき(昭和16年〔1941年〕)で、戦争が始まったころです。見合い結婚でした。結婚してすぐ、公務員だった主人とともに朝鮮の京城(ソウル)に渡りました。花嫁道具のうち着物は行李(こうり)に入れて送り、タンスや鏡台は朝鮮で買いました。花嫁衣裳として送った着物も、戦争になりもんぺをはくことのほうが多くなりました。向こうには4年ほどおりましたが、着物は最初のうちだけで、ほとんどもんぺをはいていたように思います。昭和17年と19年に子どもができました。最初の子はソウルから実家に帰郷し、産婆さんに取り上げてもらいました。二番目の子どもも実家で産む予定でしたが、出産予定の少し前に主人が兵隊に取られたので、女1人で小さい子どもを連れて帰れず、やむなくソウルで日本人の産婆さんに取り上げてもらいました。主人は半年ほどソウルの兵舎に入っていました。子どもの服は私が縫って作りましたが、戦争末期になると子どものパンツに入れるゴムや靴もなくなりました。子どもは寸胴(ずんどう)なので腰の部分を紐でくくってもすぐにずり落ちるのです。ゴムがなくなり主婦はみんな困っていました。丈夫な布で子ども用の靴を作ってもすぐに破れました。
 終戦の年に主人は北朝鮮のチャンゼン(現在のチョンジン〔清津〕と思われる)に赴任しました。4月に赴任して8月に終戦を迎えました。終戦後1週間位してソ連兵が入ってきて、日本人は全員学校に収容されました。荷物は行李一つくらいしか持っていくことを許されず、残りの主な荷物は倉庫に入れさせられました。学校からは外出禁止で、買い物に出ることもできません。日本人の男は強制労働に出され、女は学校で子どもの世話などをして過ごしました。お金や貴金属はすべて出すよう指示があり、隠していたら銃殺ということも言われました。朝鮮の人が貴金属などを買いにきたので、このとき売ったりもしました。戦争が始まり着物を着ることが少なくなったときに、金紗(きんしゃ)とか大島(おおしま)といったいい着物は実家に郵便で送っていましたが、残りは収容されたときに倉庫に入れさせられ、ほとんど盗られてしまいました。結局残った家財道具で売れるものは全部売りさばいてお金をつくり、持てるものだけ持って日本に帰ったのです。子どもが小さかったので、私は1人をおんぶし、1人は手を引き、もう一方の手にはおむつなどを入れた袋を持って帰りました。主人が大きなリュックを背負っていましたが、その中にも子どもの着替えなどを入れたので、結局自分の着物は2、3枚くらいしか持って帰れませんでした。
 北朝鮮から脱出したころは、すでに冬になっており、学校では寒くておれないため、自分の家に帰ることが許されていました。自分の家といっても部屋全部使えたわけではありません。一家族が一部屋しか使えず、狭かった私の家にも二家族が共同生活をすることになりました。主人は相変わらず強制労働に出されていました。食事は麦、大豆、野菜、芋など最低限のものは配給されましたが、少しだけ配給される米を主人と子どもに食べさせたら、私の食べる米はありませんでした。大豆だけ食べていたのでお腹が悪くなり、よく下痢をしました。8月の終戦から12月までそんな生活が続きました。
 12月になり逃がしてくれる船が出るというので、何とかお金を作って船に乗りました。逃がしてもらうために朝鮮の人にお金を渡す必要があったのです。急いでいたので炊いたご飯もお釜のまま風呂敷に包んで船に乗り込みました。ホコウ(浦項:現在のポハン)というところまで行くとアメリカ軍がおり、日本に帰れるということでした。ソ連兵に見つかれば撃たれたり、船ごと沈められる恐れもありました。事実、私らの前に出た船はソ連軍により沈没させられたとのことで、夜陰に乗じて出発し、南北の境界を越えるまでは不安でした。
 北朝鮮からホコウまでの船は、脱出者ですし詰めの状態で、寝返りもうてませんでした。いったん入ったら貨物船の船倉は深く、甲板までは高いので容易には出られません。中にオマルを持っている人がおり、みんなその中に用をたして海に捨てましたが、甲板に上がって捨てる係は身軽なうちの主人でした。船がよく揺れるので船酔いの人が多く、吐いたものもオマルに入れて捨てたため、オマルは大活躍でした。ホコウまでこの貨物船に40時間ほど乗りました。ホコウに着くとアメリカ兵がおり、日本までの切符をただでくれました。ここではお寺に2日ほど収容され、行き先ごとに分かれて帰国することになりました。ホコウは日本から引き揚げてきた朝鮮人と朝鮮から引き揚げる日本人とでごった返していました。日本から引き揚げてきた朝鮮人は日本円を持っていましたが、朝鮮では使えなくなるので、日本へ引き揚げる人を見つけると朝鮮のお金と『交換して。』と盛んに声をかけていました。私も少しばかり朝鮮のお金を持っていたので、有利な比率で日本円と交換でき、かなり助かりました。
 松山に直接帰る船はなかったため、汽車でプサン(釜山)に行き、プサンから大きな船に乗り博多(はかた)(福岡市)に渡りました。さらに博多から松山に帰るのに5泊6日もかかりました。博多から汽車で鳥栖(とす)(佐賀県)を経由して別府(べっぷ)(大分県)に行き、船で八幡浜(やわたはま)に渡り、あとは汽車で松山に帰りました。当時の汽車や船は便が少なく、接続も悪かったため、何日も余分に泊まることになったのです。

 イ 松山での生活

 松山に帰ってからは、いったん田窪(たのくぼ)(現在の東温市田窪)の実家に落ち着きました。必要なものは実家でもらったりしてしのぎました。当時実家には私の家族以外にも、焼け出されたおじの家族(7人)や近所の人(3人)など大勢住んでいました。食べるものは、母が布団や衣類を農家に持って行き、食料と交換して工面してくれました。戦前うちは土地をたくさん持っていましたが、戦後の農地改革でほとんどなくなり、農業もしてなかったので食べるものがなかったのです。
 1年くらい田窪の実家で過ごした後、松山にできた引揚者住宅に引っ越すことになりました。石手(いして)川の土手に建てられたこの住宅は、杉皮葺(ぶ)き屋根の粗末な四軒長屋でした。部屋は奥に6畳の畳の間、手前に3畳の板の間があり、玄関から奥まで通路(通り庭)がありました。通路にセメントの流しはありましたが、水道はないので共同井戸まで水をくみに行かなければなりませんでした。煮炊きするくど(かまど)は、買ってきて家の前に据えました。雨が降ると困るので、くどの上に簡単な屋根を主人が作ってくれました。炭などはなく、燃料は製材所から木を調達しました。引っ越して一週間後に一番下の子が生まれました。当時、食料は配給でしたが『配給車』と呼ぶ小さな車でもらいに行きました。木の箱に金属の車輪がついており、配給品を積んで引っ張れるように手で持つところがついていました。配給車は店で売っており、どこの家も持っていました。中村(なかむら)橋の東に家はありましたが、配給所は立花(たちばな)橋のちょっと降りたところにありました。『配給ですよ。』と声がしたら早く行かないと次に回されるので、下の子をおぶって走って行きました。配給される食料は、米やサツマイモならよいほうで、コウリャン、麦、トウキビの粉などが多かったです。配給量は1人になんぼというのが決まっており、それを配給の帳面に書いてありました。うちは着のみ着のまま引き揚げてきたため、着物など農家に持って行き交換できるものはあまり持っておらず、米を手に入れることはできませんでした。
 引揚者住宅に住んでいるころは子どもも小さく、家も粗末で食べるものもなく、主婦としては一番しんどい時期でした。引揚者の住宅には4、5年ほど住みましたが、上の子が小学校2年のときに主人の仕事の関係で福岡に引っ越しました。福岡には10年ほどおりましたが、福岡に住んでいたときに洗濯機やテレビなど家電品を買いました。福岡の家にかまどはなく、ガスも水道も通っていました。異動で再び松山に帰り、主人が定年退職した後にここに家を建てて住むようになりました。
 今は趣味でグランドゴルフをしています。練習場までは自転車で通っています。やっているメンバーはみんな私より若い人です。最初はグランドゴルフの名前も知らず、ゲートボールのようなものではないかくらいに思っていました。ゲートボールは組でするので、下手だと他人に迷惑をかけるというのでいやだったのですが、グランドゴルフは1人でできると聞きました。私は運動があまり得意ではなく、年が年ですので入るのをためらっていたのですが、知人から誘われて入りました。入ったとき、すでに85歳を過ぎていました。現在、週に月、水、金の3日練習があり、いろいろな大会にも参加しています。」