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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)美術館に着任して

 ア かまぼこ板にも絵がかける

 「私はもともと町の行政事務の職員でしたが、平成5年(1993年)の開館と同時に美術館に異動になりました。当時は美術館運営のマニュアルも収蔵品の台帳すら整えられていない状態でしたが、幸いなことに開館一年目は南予初の美術館が人口約5,000人の町にできたという話題性や、著名な芸術家の収蔵品があること、そしてもの珍しさも手伝って初年度の目標であった15,500人を難なく達成するほどの来場がありました。しかし、翌年からはそうはいきませんでした。著名な芸術家の作品を3か月ごとに入れ替えてみても、人はやって来なかったのです。多くの人にとっては展示品を見るだけでは面白みに欠け、身銭を切ってまでもう一回行ってみようとは思ってもらえなかったのです。
 美術館が建てられた背景には、当時の行政のトップに城川が文化の果つる町になってはいけないという強い思いがありました。それは自分たちの世代はいいとしても、未来を築く子どもたちにとって、文化施設がなく、本物も見たことのないようでは、成長しても気高さや気品を欠いてしまうかもしれない。本物や物事の真髄(しんずい)を知っている人間は将来どこに行っても臆(おく)することなく城川に生まれたことがベースになって幸せを築ける、城川に生まれたことを誇りにして生きていける人間を育てることができるという思いです。
 そういう背景を思うと来館者が激減した状況のままではいけないと考え、ギャラリートークを企画したのです。その第2回目に洋画家の折笠勝之氏を招いたのです。当初なかなか引き受けてくださらなかったのですが、この美術館が子どもの未来をつくるために建てられたものであり、そのため著名な作家の作品を展示するスペースと、子どもたちの作品を展示するスペース(キッズギャラリー)とが同じ166m²の広さであることや、先生が絵描きになられたいきさつを話していただくことで子どもたちが勇気をもらえるかもしれないと説得したのです。そうしてギャラリートークが実現し、その翌日にお土産(みやげ)としていただいたのがかまぼこ板に描かれたピエロの絵だったのです。その絵が手の平に乗ったとき、私は『かまぼこ板がルーブルになっとる!』と思ったのです。かまぼこ板がルーブル美術館の収蔵品のような美術品になっているように思えて感激したわけです。うれしくて、自分の気持ちを周りの人にも伝えたくて、展示したり、話したりして自慢したんですね。」

 イ 構想をふくらませて

 「それから私はかまぼこ板にかいた絵を見た感動を何かにつなげたいと思ったのです。約13.5cm×約4cmのかまぼこ板を第一展示室・キッズギャラリーの壁面に貼り付けたとしたら、約1万枚貼(は)れる。1万人の人が1枚かいてくれれば、『1万人の美術展ができる。』と思ったのです。できれば夏休みのころにできないものだろうかと、いろいろな構想を膨らませました。
 しかし、前例のない企画ですから、行政内部の調整はとても大変でした。バブル経済もはじけ、美術館というだけでも『ぜいたくだ。』と見られがちの時代に新しい企画を打とうとしたのですから、歓迎されるわけがなかったのです。また、年度途中の思いつきからはじまった企画ですから、予算は全くついていません。お金もないし、スタッフはわずか4人で人手もない。そして準備にかける時間もありません。さらに、私たち自身が美術館を運営したことがないわけですから、企画を進めようにも何が必要で、どうすればいいのか全くわからなかったのです。そういう中で、失敗したらどうするのか、責任はどうやって取るのかずいぶんせめられました。
 そういう中で展覧会の構想を進めたわけですが、私を動かしたものは、一番にはおもしろそうだなあというのと、やっぱり楽しいことやないかなあ、これだったらお金もいらずにやれるんじゃないかなあという思いでした。そして、これを楽しくやっていくために、また、どうしたらみんなが振り向いてくれ、マスコミに取り上げてもらえるのかということを一生懸命考えました。そうして、『奥伊予ぼっこちゃん(写真4-1-10参照)』というマスコットキャラクターを誕生させたり、『板の数だけ夢がある』とか、『夢のかけらください。』とか、『捨てられる運命のかまぼこ板に、絵をかいて第2の人生を歩ませたい。』とかいうようなキャッチコピーを次々と作り出していくことになったのです。」

写真4-1-10 奥伊予〝ぼっこちゃん〟がお出迎え

写真4-1-10 奥伊予〝ぼっこちゃん〟がお出迎え

ギャラリーしろかわ。西予市城川町下相。平成19年8月撮影